帰雲城と内ヶ嶋氏に関する年表(資料)

以下の年表は内ヶ嶋氏と帰雲城に関連する事柄を史料から抽出したもので研究会員の「ひで氏」が長い時間をかけてまとめたものです。 この年表を見れば帰雲城はもちろんのこと内ヶ嶋氏の動向、そして切っても切れない関係にあった「照蓮寺」の動向までが全て関連付けられてわかるようになっています。

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帰雲城関連年表

帰雲城関連 年表2A

                          2012年 平成24年 3月9日

 

 この『帰雲城関連年表2A』は、帰雲城と内ヶ嶋関連の出来事を記載して、歴史年表1Aに統合する予定で記す。

 

「伝えによると、養老(ようろう)7年(723年)白山本地中宮長滝(ながたき)寺(てら)と号するようになったという。開基当初法相宗であった長滝寺は、天(てん)長(ちょう)5年(828年)天台宗に改宗した。長滝寺には、最盛期には360の子院、僧坊があったとされ、中でも養老(ようろう)3年(719年)開基と伝えられる子院、経聞坊(きょうもんぼう)があった。同坊は室町時代から白川郷とは密接な関係にあったところである。

 室町中期に足利将軍の命により白川郷へ移封された内島氏の一族にあたる愛千代丸(のちの良明)は長滝寺の仏門に入り、康(こう)正(しょう)2年(1456年)14歳で先師の堯弘経聞坊を受け継ぎ、権大僧都長滝別当となった。続いて内島氏一族一門から道(どう)雅(が)、雄(おう)円(えん)(のち応円)らが良明のもとへ弟子入りしている。彼らは川(かわ)上(かみ)庄の運営にあたり、衰える寺勢を懸命に支えていた。」『新編白川村史 上巻』

 

「親鸞(しんらん)自身は立宗の宣言をしていなかったので、初めのころは一向宗と呼ばれていたからである。浄土真宗は親鸞(しんらん)の死後にいくつかの派に分かれるが、室町時代に入って、親鸞直系の本願寺第8世蓮如(れんにょ)によってほぼ統一される。それまでは親鸞の弟子などが派閥をつくって継承されていた。

 

 一方の嘉(か)念坊(ねんぼう)善(ぜん)俊(しゅん)は親鸞の弟子といわれ、願(がん)智(ち)より100年以上も早く飛騨へ入り、白川郷を本拠に飛騨西部・奥美濃の幅広い地域に真宗を布教したと伝えられている。善(ぜん)俊(しゅん)は初め天台宗寺門派園城寺へ入って道伊と称し、寛喜(かんき)3年(1231年)、箱根において親鸞の弟子となり、嘉念坊善俊に改め親鸞に扈(ぐ)従していたが、同師の命で諸国の布教行脚が始まった。美濃国郡上(ぐじょう)郡白鳥にしばらくとどまったのち、白川郷へ入ったと伝えられ、文永(ぶんえい)6年(1269年)、鳩(はと)谷(がや)に一宇を建て寓(ぐう)居した。これが飛騨における真宗道場の濫(らん)觴(しょう)となった。善俊は鳩(はと)谷(がや)に真宗の法灯を掲げて13年、弘安(こうあん)5年(1282年)3月3日、69歳で示寂したとするのが通説である。

 

 いつの時代か明確ではないが鳩谷道場を飯島へ移して正蓮寺と号し、熱心な門徒らに支えられて正蓮も栄えていた。」『新編白川村史 上巻』

 「その飯島正蓮寺は9代目明(みょう)教(きょう)のとき、白川郷の新興勢力、内島氏と戦って敗れ、回祿、明教(みょうきょう)は卒(そ)塔(とう)婆(ば)峠まで逃げたがついに自殺したと伝えられている。飛騨における真宗の開祖善(ぜん)俊(しゅん)にちなみ、飯島正蓮寺善俊道場とも称し、門徒らは[善俊門徒]と名乗って誇りにしていたようである。『新編白川村史上巻』

 

「本願寺法主略図 8世蓮如(れんにょ)――9世実如(じつにょ)――10世証如(しょうにょ)――11世顕如(けんにょ)――

これに先立つこと7年前の明応(めいおう)3年(1494年)、本願寺9世実如(じつにょ)は、再興の待たれる正蓮寺の寺号を[照蓮寺]と改め、続いて明応(めいおう)7年(1498年)2月、照蓮寺の木仏本尊に裏書きをして明心(みょうしん)に与えたとされている。本願寺はこれを惣(そう)道場として期待し、明心(みょうしん)は領主内島雅(まさ)氏(うじ)の女(むすめ)を妻に受け、中野に一宇を創建し、本願寺の期待する飛騨国の総道場へと発展することになる。

 信仰に熱心な善(ぜん)俊(しゅん)門徒を擁(よう)する照蓮寺は山号を[光曜山]とし、大変な勢いで飛騨南西部・北濃・越前へと門徒を拡大していった。その中心となったのは毛坊主と呼ばれる俗道場の当主であった。かれらは自宅などに本尊を掲げて農民や樵(きこり)らに真宗の法義を熱心に布教した。

 

 延徳(えんとく)元年(1489年)を境に、善(ぜん)俊(しゅん)門徒に大きな変化が起きている。このころから本願寺に対して本尊下付を求める善(ぜん)俊(しゅん)門徒が多くなり、道場も続々と誕生しているからである。これは、延徳(えんとく)元年の前年、すなわち長享(ちょうきょう)2年に本願寺内島氏との間に和議が調ったからとみてよい。この本尊裏書書は下付年月と当時の法主名[善(ぜん)俊(しゅん)門徒何某]を記すのが通例で、明応(めいおう)3年(1494年)9月18日に上呂郷尾崎村了敬に下付されたものを初見として、それまで[善俊門徒]としていたのを[照蓮寺門徒]に変えている。」『新編白川村史 上巻』 明教(みょうきょう)の子は兼入(けんにゅう)(のちの明心(みょうしん)・嘉念坊明心(みょうしん)) 

 

「当時の照蓮寺は蓮如(れんにょ)や実如(じつにょ)の支援と内島氏の協力によって、たちまち広い範囲にわたって多くの門徒を抱え、弘(こう)治(じ)年中(1557年)までに70か寺を超える末寺を擁(よう)するまでに発展していた。

 

 天(てん)正(しょう)13年(1585年)には飛騨を征服した金森長近(ながちか)の恩寵(ちょう)を受けて、天(てん)正(しょう)16年(1588年)に高山市に寺地を与えられ、本寺を建立した。これが後の高山御坊(東本願寺派高山別院)照蓮寺である。その際に中野に残された堂宇は通寺となり、心行坊とも中野御坊とも称していた。」『新編白川村史上巻』

 

白川郷(村)は「浄土真宗が盛んになる以前は加賀・越前・美濃にまたがってそびえる白山を霊場とした白山信仰の強い影響下にあった。」『新編白川村史 上巻』

 

 

788年 延暦(えんりゃく)7年 最澄、比叡山を開く

 

浄土真宗、開祖 親鸞。 浄土宗、開祖 法然。 日蓮宗、開祖 日蓮。 臨済宗、開祖 栄西。

 

法華経。 密教。 念仏。 座禅。

 

1214年 建(けん)保(ぽう)2年「人皇82代後鳥羽帝第2皇子出家し玉いて親鸞聖人の弟子となり法諱を周観称し後善性と改む 是越後高田浄興寺の開祖なり 善性第2子を善俊と云 建保2年(1214)越後国に生る」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』5頁に『長瀧寺史料』所収

 

1214年 建(けん)保(ぽう)2年「照蓮寺開基嘉念坊善俊産生」『荘川村史下巻』18頁に「白川年代記益戸本」所

 

1221年 承久(しょうきゅう)3年 「親鸞(しんらん)浄土真宗を広める」『新編白川村史 下巻』

 

1221年 承久(しょうきゅう)3年「善俊は、承久(しょうきゅう)3年、8歳のときに園城寺(天台宗延暦寺派、別名三井寺の僧籍に入り、道伊と称したと伝えられています(『照蓮寺御命日記』)」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場本』32頁

 

「高山照蓮寺の『照蓮寺御命日記』によると、善俊は後鳥羽天皇の第12皇子であると記されている」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』5頁

 

1232年 貞永(じょうえい)元年 「善俊、親鸞の常陸から帰洛の途次、箱根で親鸞(しんらん)に面謁受法し、嘉(か)念坊(ねんぼう)の道場坊号を賜る。善俊は、譜代市村太郎右衛門兼政を随伴させ、親鸞に同行して入洛する(19歳)『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』6頁に『白川照蓮寺由緒略記』所収

     

1235年 嘉(か)禎(てい)元年 「親鸞(しんらん)帰洛の途中美濃(みの)に布教する」『新編白川村史 下巻』

 

1247~1248年「宝(ほう)治(じ)年中に<善俊>飛騨国白川郷に来て、鳩谷に居住した」(1247~1248年)『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』7頁に『照蓮寺御命日記』所収

 

1251年 建(けん)長(ちょう)3年 「善俊、美濃白鳥の日置氏(来通寺)のもとで庵室を営み、本格的な布教活動に入ることになる。しかし、天台別格の大刹長瀧寺の勢力圏内にあって[百難湧出して一功成らず、教化仲々に難儀](郡上郡案内)であって長くこの地に留まることはできなかった。[建長5年の秋迄3歳が程白鳥に座し](善俊光正録巻二)、やがて美濃白鳥を立ち去ることになる(38歳)」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』6頁

 

1253年 建(けん)長(ちょう)5年 「善俊は美濃白鳥の[御坊出廬(りょ)に臨(のぞ)み、また来るべき縁由として此処を来通庵と名付けらる](郡上郡案内)。善俊の道先案内は、飛騨国海塩村(のちの荘川村海上)の長右衛門であったという(同上)。または、下総千葉小次郎成正(のちに浄正と改む)であった(斐太後風土記書上帳)。海塩村に入った善俊は、この地に長く滞在した様子はうかがわれない。長瀧寺の勢力圏を避けるためには更にここから遠退くことを余儀なくされたのであろう。善俊は、庄川の川筋の村々に立ち寄り

ながら下流に向かって旅を続ける。鳩谷に辿り着くまでのこの間の消息を伝える記録も、また伝承も殆んど見当らない。僅かに平瀬村(現白川村平瀬)の山裾沿いの旧道に、善俊の通過を思わせる痕跡が伝承として残されている(休憩時に残した梨の木)。『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』6頁

 

1253年 建(けん)長(ちょう)5年善俊白川の御在所は、建長5年癸丑(うし)の秋9月の初めなり。御齢42歳の御時なり」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』7頁に『善俊光正録巻二』所収

 

1253~1255年 建(けん)長(ちょう)5~7年 嘉念坊休息の跡(嘉念坊梨)白川村平瀬「嘉念坊善俊が白川(鳩谷)に向かう途中、この地で休息し、を食した。その種が発芽成長し嘉念坊梨と名付けられたと伝えられる。近年雪害により倒木し、2世が育っている」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』

 

1255年 建(けん)長(ちょう)7年 「嘉念坊善(ぜん)俊(しゅん)鳩(はと)谷(がや)村の寺ケ野(現在寺尾)に道場を創建する(42歳)」『新編白川村史 下巻』

 

「最初は鳩ヶ谷上野に地引仕かれども、旋風烈(はげ)しき岡地の野原なれば、参詣の傷あるべしとして、の裾野に地を転じて敷地を築き」(善俊光正録巻二)「白川鳩飼寺ヶ野に居住」(白川照蓮寺濫觴(らんしょう)記)

 

「白川郷鳩飼寺ヶ野に一宇を艸(そう)創して、聖人御筆の九字十字の名号を安置し給ふ、即今照蓮寺の濫觴(らんしょう)なり」(白川照蓮寺由緒(ゆいしょ)記)

「嘉念坊善俊承命当国白川鳩飼寺ヶ野に来住す。祖師これが為に御寿像一躯(く)(御文六寸)御名号二幅与へ給ふ」(光曜山照蓮寺略記)

「(3)旧道の山寄りの側に、沢水の流れ出る箇所があり、その一帯は。現在は雑木が生え、一部に杉を植林しているが、ここを[おやしき]とか[おやしきあと]と鳩谷の人びとは呼んでいる土地がある」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』8頁

 

1255年 建(けん)長(ちょう)7年 寺ヶ野道場跡 白川村寺尾「嘉念坊善俊が白川に最初に創建した道場。この土地は風が強く居住、人々の参詣には適さないため数年のうちに鳩飼(鳩谷)に移した。→鳩谷道場照蓮寺を再建する際、赤牛に麝香杉(→照蓮寺縁の麝香杉)を引かせ、止まった場所に再建しようとしたところいったんこの寺ヶ野で止まったが、また中野まで歩いていったという話が残っている」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』

 

1258年 正嘉(しょうか)2年 「嘉念坊善(ぜん)俊(しゅん)鳩谷(はとがや)区の集落内の「道場跡」に移る(45歳)。この鳩谷道場居を定めた後に、白鳥に寓居(ぐうきょ)していた浪士布村治郎右衛門輝幸の娘、於(お)好(こう)20歳が[白川御遷(せん)住の後、御跡を慕(した)い飯島に来り、御奉公他事なく勤めける](善俊光正録巻二)ことになり、善俊夫婦の生活の場を飯島の[御屋敷](のちにこの場所に正連寺を建立、現在の敬勝寺境内の南側)に設定することになったと思われる。『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』8頁

 

1258年 正嘉(しょうか)2年 鳩谷道場跡 白川村鳩谷「嘉念坊善俊は寺ヶ野より鳩谷に道場を移し、終生この道場を本拠地として教化活動につとめ、飛騨の真宗教団発展の端緒を開いた」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』

 

1259年 正(しょう)元(げん)元年「飯島正蓮寺草創嘉念坊住職」『荘川村史下巻』19頁に「白川年代記益戸本」所

 

1262年 弘(こう)長(ちょう)2年 「親鸞(しんらん)上人入滅」(善俊はこのとき49歳)『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』9頁

 

1262年 弘(こう)長(ちょう)2年 「善俊に御男子(2代目善隆)出生す」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』7頁に『善俊光正録巻二』所収

 

1263年 弘(こう)長(ちょう)3年「正蓮寺2代善隆産生」『荘川村史下巻』19頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1269年 文永(ぶんえい)6年 「文永6年に善俊が寺地を飛州鳩谷に開く」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』7頁に『真宗年表』所収

 

1282年 弘安(こうあん)5年 「嘉念坊善(ぜん)俊(しゅん)示寂(旧暦3月3日)享年69歳。遺体は鳩谷道場の南、約50mの場所で荼毘(だび)に付したと伝えられている。」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』9頁

 

1282年 弘安(こうあん)5年「飯島嘉念坊善(ぜん)俊(しゅん)入寂69 子嘉念坊善隆正蓮寺相続 此人祖師ノ再来ト云フ」『荘川村史下巻』19頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1278~1287年 弘安(こうあん)年中鳩谷道場に20年余居たのちに、[弘安年中隣村飯島ニ移住シト也](斐太後風土記)『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』9頁

 

「往古高山別院照蓮寺第3世善教上人ノ頃鳩谷ヨリ飯島ニ移リ、第4世了遵 第5世善享 第6世明恵第7世明円 第8世明誓 第9世明教ノ諸師合セテ7代此ノ地ニ居住シタマヒシ」(白川村史)

「(2)市村太郎右衛門兼政光輪寺 兼政は、相州酒勾の医者順誓の子、市村兵庫兼冶の孫に当る。

 伊豆三島にて善俊の弟子となり、以後、鳩谷まで善俊に随行する。その後、兼政は白川郷岩瀬村に道場を創建する(年代不詳)。その後、中野村に道場源右衛門)を移す。後の光輪寺の祖。

 

 近世以降にも源右衛門は代々白川郷照蓮寺領の村々の兼帯名主を勤める。中野村移転は、飯島正連寺の移転よりも早い時期のようである。(光輪寺の沿革及び聴取)」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』9頁

 

1313年 正和(しょうわ)2年 「嘉念坊第2世善隆入寂享年52歳」『新編白川村史 下巻』

 

1313年 正和(しょうわ)2年 御屋敷跡・正連寺跡 白川村飯島(敬勝寺)「嘉念坊3世善教の時代に道場を鳩谷から飯島に移し、のちに正蓮寺となる。内ヶ島氏に焼討ちされるまで250年間に強靭な教団となる」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場資料』

 

1316年 正和(しょうわ)5年「正蓮寺2代嘉念坊善隆セン(遷化)ス 51」『荘川村史下巻』19頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1317年 文(ぶん)保(ぽう)元年 嘉念坊第3世善教入寂享年52歳

 

1318年 文(ぶん)保(ぽう)2年「正蓮寺3代嘉念坊善教迁ス 31」『荘川村史下巻』19頁に「白川年代記益戸本」所収

 

「飛騨の国の真宗は、白川郷における嘉念坊善俊と、高原郷(神岡町、上宝村)の願智坊永承によって開かれたとされる。このうち、永承は天台宗の僧であったが、真宗本願寺派の覚如に弟子入りして、嘉暦元年(1326)に[執事抄]を与えられ、飛騨高原郷吉田に聞名寺(現在の常蓮寺)を創立し、飛騨北部の教化にあたった。一方の嘉念坊善俊は親鸞の弟子といわれ、願智坊より100年以上も早く飛騨へ入り、白川郷を本拠に飛騨西部・奥美濃の幅広い地域に真宗を布教したと伝えられている」『新編白川村史上巻』256頁

 

1290~1470年までの、飯島正蓮寺の記録が少ない?(未確認)

 

1327年 嘉暦(かりゃく)2年「正蓮寺4代嘉念坊了遵死 22」『荘川村史下巻』20頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1344年  康永(こうえい)3年「正蓮寺善享橋本左衛門ヲ扶持シ置ル、是ハ建武元甲戍西園寺北山大納言公宗卿朝家ヘ返逆、露顕シテ中誅セラレヌ、弟橋本中将ハ逃奔セラル、今年姉小路大納言頼鑑(ヨリカネ)公飛騨ノ国司ニ命セラレ下向、一国一円ニ領地セラル、是ヨリ4代83年応永18年迄、荒城郡小鷹利ニ在城、北山中将俊季ノ末弟橋本左衛門尉(じょう)経喬(ツネタカ)兄公宗卿ノ罪ニ依テ、飛騨国へ流刑トナリ国司頼鑑(ヨリカネ)ニ預ラル、同国白川ノ内小呂ト云処ニ蟄居セラル、是(こ)内ヶ嶋始祖ニテ先祖ハ西園寺巴(ともえ)ノ大将ノ末葉ナリ 後年執事三嶋右衛門ノ聟(せい)トナリ内ヶ嶋左衛門尉(じょう)散位経喬(ツネタカ)ト名乗勢漸ク萠(ほう)セリ 七代目兵庫頭氏(ウヂ)理(マサ)ナリ」『荘川村史下巻』21頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1351年 観応(かんおう)2年「本願寺3代覚如上人遷化82歳 御弟子正蓮寺善隆(2代)、善教(3代)吉願智坊」『荘川村史下巻』21頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1357年 延文(えんぶん)2年 嘉念坊第5世善享入寂

 

1386年 至(し)徳(とく)3年 嘉念坊第6世明恵入寂 

 

1390年 明徳(めいとく)元年 「本願寺綽如が井波に瑞(ずい)泉寺(せんじ)を開く」『新編白川村史 下巻』

 

1395年 応(おう)永(えい)2年 嘉念坊第7世明円入寂   

 

1396年 応(おう)永(えい)3年「正蓮寺8代嘉念坊明誓(ミヤウセイ)生ル」『荘川村史下巻』22頁に「白川年代記益戸本」所

 

1415年 応(おう)永(えい)22年 「蓮如(れんにょ)誕生。本願寺第8世」(インターネットから)

 

1441年 嘉(か)吉(きつ)元年「正蓮寺教信生ル」 真蓮寺一色三島ノ先祖ナリ」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1456年 康(こう)正(しょう)2年3月1413年 応永20年9月か?)嘉念坊第8世明誓(みょうせい)入寂

 

1457年 長禄(ちょうろく)元年 「蓮如は長禄元年(1457)に48歳で本願寺第8世を継職している。そのころの真宗はすでに高田派仏光寺派錦織寺派三門徒派など、親鸞の門弟たちによって、開かれた各派が隆盛を極め、本願寺はわびしい状態であった。祖師親鸞の血脈直系は、第4世覚如の遺志を受け継ぎ、門閥間の邪説を是正して本願寺をもって全真宗教団の統一を図ろうとした。このため、ときには各派の教説を批判することもあって、その反発を買った。しかし蓮如は忍耐強くその実現を待った。

 果たして仏光寺派経豪は文明13年(1481)に末寺42坊を率いて本願寺派に加わり、翌14年には三門徒証誠寺が、続いて明応2年(1493)には錦織寺が帰入した。これで高田派を除く主な派閥は本願寺傘下に入ったことになる」『新編白川村史上巻』309頁

 

1458年 長禄(ちょうろく)2年 「8月 実如(じつにょ)誕生。本願寺第9世宗主」(インターネットから)

 

1464年 寛(かん)正(しょう)5年「実明坊教円生ル 真蓮寺祖ナリ」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収

 

「飛騨における真宗建て直しのため、善俊門徒再起に尽力したとされる本願寺蓮如は、諱(いみな)を兼壽という。寛正6年(1465)、祇園社の神人と馬借らによって大谷本願寺が破壊された後、近江(滋賀県)の堅田あたりで布教活動をおこなっていた。その精力的な行動と卓越した指導力は、やがて北陸地方の教化活動へとかり立て、文明3年(1471)に、越前国細呂宜郷吉崎に道場を構え、真宗の法儀をわかりやすく説いた」『新編白川村史上巻』262頁

 

1466年 文(ぶん)正(しょう)元年三嶋太郎左エ門正顕生ル 一色ノ高祖なり」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1469年 文明(ぶんめい)元年 「本願寺蓮如(れんにょ)が瑞(ずい)泉(せん)寺(じ)蓮乗に親鸞聖人御影を下付する」『新編白川村史』

          「本願寺蓮如越前国吉崎(よしざき)に坊舎を建てる」『新編白川村史 下巻』

 

1471年 文明(ぶんめい)3年 「文明3年7月、越前国細呂宜郷吉崎に道場を建て、しきりに他力念仏の教えをひろめていた」『荘川村史上巻』137頁

 

1471年 文明(ぶんめい)3年「楢谷善宗、牧ヶ野祐乗 蓮如上人ニ帰依シ奉ル」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1473年 文明(ぶんめい)5年 「この年蓮如(れんにょ)が井波瑞泉寺へ下向し、国中の人々が群集する」『新編白川村史

下巻』

 

1475年 文明(ぶんめい)7年 「本願寺蓮如(れんにょ)が越前国吉崎(よしざき)を退き河内国に至る」『新編白川村史 下巻』

 

1475年 文明(ぶんめい)7年 飯島正連寺と内ヶ嶋氏の戦い

 

1487年~長享(ちょうきょう)年間 「本願寺の蓮如(れんにょ)上人が白川郷に入る」『新編白川村史 下巻』

 

1487年 長享(ちょうきょう)元年「嘉念坊明心生ル」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1488年 「長享(ちょうきょう)2年 内ヶ島将監為(ため)氏(うじ)正蓮寺ヲ責テ戦フ 七月再ヒ寄来リ正蓮寺ヲ焼払フ 八月十八日明教ヲ馬狩ノ横谷ニテ殺ス 幼子明心ハ二歳執事市村太郎左エ門守護シ 母公ト共親里越前椎ノ里ニ走ル 次男明賢ハ此時(このとき)胎内ニアリ 三嶋太郎将監父子三人美濃ニ遁レ赴ク 三嶋正顕ハ内ヶ嶋ノ嫡上野介雅氏ノ家臣トナル 延徳二年正顕嫡子正総(マサフサ)出生」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収                         

 

1488年 長享(ちょうきょう)2年 本願寺内島氏との間に和議が調った?

 

1489年 延徳(えんとく)元年「方便法身尊形 大谷本願寺釈蓮如在判、延徳元年己酉9月11日 飛州白川善俊門徒、同在所岩瀬、願主釈浄法」『荘川村史上巻』134頁(大野郡荘川村大字中野 光輪寺

 

1490年 延徳(えんとく)2年「延徳二年(三嶋)正顕嫡子正総(マサフサ)出生」『荘川村史下巻』24頁に「白川年代記益戸本」所収             

 

1494年 明応(めいおう)3年 「益田郡尾崎村永養寺本尊裏書 飛州白川照蓮寺門徒 明応3年9月18實如」『荘川村史上巻』134頁

 

1499年 明応(めいおう)8年 「3月 本願寺第8世蓮如(れんにょ)上人山科(やましな)において示寂」(インターネットから)

 

1501年 「文亀(ぶんき)元年 嘉念坊明心十五歳、御本山実如上人ヨリ御暖トシテ、栗津大学白川ヘ下向、内ヶ島上野介許容アリテ、明心白川還住、御迎トシテ真蓮寺実明坊、三嶋太郎左エ門 正顕兄弟上洛アリ、嘉念坊明心下向セラレ白川中野ニ地ヲ点シテ、一宇建立改テ照蓮寺(しょうれんじ)ト号ス。材椽ハ鳩谷ノ杉壱本ニテ造建ス。高祖善俊植玉フ木也ト云。内ヶ嶋上野介ノ息女大岡(オオオカノ)姫(ヒメ)ヲ明心ニ嫁ス。明心一世ノ行状不思議多シ、世ニ伝テ大澄大師ノ再来ナリト云、伝記ニ委シ」『荘川村史下巻』24頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1504年 永(えい)正(しょう)元年 照蓮寺、中野村へ移築される。

 

1509年 永(えい)正(しょう)6年 「時に永正6年、明心は新しい御堂(照蓮寺)に実如下賜の六字の名号をかかげて本尊とし、かって蓮如が牧ヶ野唯乗に遣わす筈であった祖師聖人の真影を特に賜り、これを本尊の傍にかかげた」『荘川村史上巻』133頁

 

1509年 永(えい)正(しょう)6年中野御坊の建立は、寺伝によれば永正6年となっているが、その後延宝5年に本堂が炎上し、翌6年再建されている」『荘川村史上巻』410頁

 

1513年 永(えい)正(しょう)10年 「本願寺実如(じつにょ)の裏書きに「五ケ山」の文字初めてみる」『新編白川村史 下巻』

 

1516年 永(えい)正(しょう)13年 「平瀬村に常徳寺建つ」『新編白川村史 下巻』

 

1516年 永(えい)正(しょう)13年 「11月 証如(しょうにょ)誕生。本願寺第10世宗主」(インターネットから)

 

1525年 大永(だいえい)5年 「2月 本願寺第9世実(じつ)如(にょ)没する。68歳」『新編白川村史 下巻』

 

1528年 享(きょう)禄(ろく)元年三嶋太郎左エ門正厳出生 真蓮寺円乗生ル」『荘川村史下巻』24頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1531年 享(きょう)禄(ろく)4年 嘉念坊第10世明心寂ス 45 

 

1541年 天文(てんぶん)10年「中野照蓮寺心行坊正雲生ル」『荘川村史下巻』24頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1548年 天文(てんぶん)17年 照蓮寺第11世了教入寂 42 

 

1553年 天文(てんぶん)22年三嶋太郎左エ門正隆出産、一色村ノ高祖也」『荘川村史下巻』24頁に「白川年代記益戸本」所収

 

夜叉熊は成長して兵庫頭氏(うじ)理(よし)と名乗り」『新編白川村史上巻』296頁

 

1570~73 元亀(げんき)年間 「中野照蓮寺炎上」『新編白川村史 下巻』

 

1574年 天(てん)正(しょう)2年 「中野照蓮寺再建」『新編白川村史』

 

1584年   天(てん)正(しょう)12年 照蓮寺第12世善了入寂 

 

1586年 天(てん)正(しょう)14年 「荻町城主山下時慶(ときよし)、芦倉(あしくら)で死す」『新編白川村史 下巻』

 

1588年 天(てん)正(しょう)16年 「金森長(なが)近(ちか)、第13世明了(宣明)を請じて飛騨門徒の中心中野の照蓮寺を高山へ移す」『新編白川村史 下巻』

 

1641年 寛永(かんえい)18年 照蓮寺第13世宣明入寂

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「居城帰雲の命名由来 帰雲は往古からの地名で[かえりぐも]と読み、江戸初期には保木脇と呼ぶようになったが、返雲帰雲川原の小字名は現在でも残っている」『新編白川村史上巻』288頁

 

白川(しらかわ)郷(ごう)=白川村23か村と、荘川(しょうかわ)村18か村の「42か村の総称」。森(もり)茂(も)村は清(きよ)見(み)村に編入。

 

「白川村は、かつて交通の便が悪く交流が困難であった。とくに冬期間は交通が断絶し、陸の孤島化した。冬期の他県との交流は不可能に近かった。白川郷が秘境といわれたのは、冬期の豪雪が外界との交流を遮断したからである。」『新編白川村史 上巻』

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「『岷江記』が善俊について語った後、第2世から第9世までを[善俊代々の事]と記しているのは、善俊とは嘉念坊道場の開基の名であるとともに、方便法身尊形裏書にみえる[白川善俊]同様、家名でもあることの証左である。また、開基善俊からただちに8世子教信と明教(9世)の事跡に跳ぶことは、開基から7世くらいまでは、歴史的事実が伝承の形でしか伝えられていない有史以前の時代に属することを暗示している」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場本』5頁

 

「この『岷江記』のもう一つの特徴は、本書末尾の編纂会のあとがきに[史実]としては其の確立に幾多の問題を残して居ります]とありますように、嘉念坊善俊の実像に迫るという立場からしますと、疑問となる記事が少なくなく、また、特定の事実についても遺聞拾録7部の間には食い違った記録が多々あります」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場本』29頁

 

「以上、限られた資料や伝承を通して、嘉念坊善俊の行状をたどってみました。もっともここでよりど

ころとしました資料の[光曜山岷江記]はじめ[照蓮寺遺聞拾録]7部は、史実に基づいた記録とは言い難く後世に僧籍に身を置いている方々によって書かれた説話集の性格が濃厚なものです。したがって、こうした資料によって善俊の実像に迫ることには大きな限界があります」『白川郷文化フォーラム‘95嘉念坊道場本』55頁

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照(しょう)蓮寺(れんじ)住職         入寂年月                 入寂年月 

1 善(ぜん)俊(しゅん) 1282年 弘安(こうあん)5年3月    9 明教 1488年  長享(ちょうきょう)2年8月

2 善隆 1313年 正和(しょうわ)2年5月  10 明心 1531年  享(きょう)禄(ろく)4年7月

3 善教 1317年 文(ぶん)保(ぽう)元年1月  11 了教 1548年   天文(てんぶん)17年2月

4 了遵 1327年 嘉暦(かりゃく)2年5月  12 善了 1584年   天(てん)正(しょう)12年3月

5 善享 1357年 延文(えんぶん)2年9月  13 宣明 1641年   寛永(かんえい)18年9月

6 明恵 1386年 至(し)徳(とく)3年7月  14 宣了 1647年  正保(しょうほう)4年8月

7 明円 1395年 応(おう)永(えい)2年9月  15 宣心 1675年   延宝(えんぽう)3年11月

8 明誓(みょうせい) 1456年 康(こう)正(しょう)2年3月←1413年 応永20年9月 が正解か?

『高山別院史 下 』15頁より<8世、明誓(みょうせい)の子が、三島將監教信(たかのぶ)(兄)と、明教(弟)>

1717年  享保(きょうほう)2年頃 『光曜山岷(びん)江(こう)記(き)』正覚寺浄明書す

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願生寺(がんしょうじ)歴代住職 

1 浄正(1238年命終61才)   11 願了(1621年命終30才)

浄正は俗名千葉小次郎成正     12 会慶(1647年命終49才)

2 了正(1270年命終71才)   13 道了(1685年命終58才)

3 了善(1286年命終49才)      1686年本山より願生寺の寺号が下付される

 4 善恵(1307年命終60才)   14 道知(1698年命終不明)

 5 了念(1362年命終不明)    15 宗了(1728年命終59才)

 6 了誓(1427年命終74才)   16 了智(1773年命終59才)

 7 願正(1461年命終70才)   17 顕(けん)了(りょう)(1817年命終79才)

 8 願宗(1497年命終61才)      1778年 安永7年頃顕(けん)了(りょう)『願生寺由来記』を編纂

 9 願(がん)誓(せい)(1556年命終74才)   18 了明(1838年命終60才)

1556年川尻備中守四間四面の本堂寄進

10 道(どう)智(ち)(1609年命終78才)

 

(1589年照蓮寺と共に下岡本に移住<井端道場 海盬山 願生寺>)

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メモ書き

内ヶ嶋 氏理(うじまさ『荘川村史下巻』21頁に「白川年代記益戸本」所収・うじただ『神岡町史特集編』164頁に「五 飛域太平記(全)」所収うじよし『新編白川村史上巻』296頁・うじはる『天正大地震誌』ⅰ頁)

 

牛丸叉右衛門(政親)

牛丸叉右衛門(重親)

牛丸右衛門(重頼)←姉小路家臣か?

塩屋筑前守(秋貞)

 

嘉念坊善俊から、事跡の推移「美濃白鳥→海上村→平瀬→鳩飼村上野に当初道場を計画したが断念→鳩谷村寺ケ野道場(現在寺尾)→鳩谷村道場→飯島村[御屋敷]→飯島正蓮寺→中野村照蓮寺→高山照蓮寺」

 

中野(村)御坊照蓮寺 心行坊 (掛所)

高山別院光曜山照蓮寺 高山御坊照蓮寺

 

光輪寺 伊豆三島にて善俊の弟子となり、以後、鳩谷まで善俊に随行する。その後、市村太郎右衛門は白川郷岩瀬村に道場を創建する(年代不詳)。その後、中野村に源右衛門道場を移す。後の光輪寺の祖。光輪寺の開祖は浄法あるいは浄徳といい。

海上(海塩)村 善恵坊道場・  願生寺 井端道場

 

光輪寺 

開祖 浄法       9世 是門  

2世 宗祐       10世 宗空  

3世 一乗       11世 廣道

4世 不明       12世 廣海

5世 是空       13世 法恩

6世 了正       14世 香恩

7世 宗清       15世 左教

8世 宗慶       16世 哲信

 

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例言

 

 本文中の数字(和数字、一、二、三、十一、十二、十三)は、読みやすくするために洋数字(英数字、

1、2,3、11,12,13)にしてあるところもある。

 

本文中の(茶色字以外の)読み仮名は、適した読みを付けたつもりだが、正確でないものもある。

 

本文中の「茶色字」の振り仮名、又はカタカナは原文のままである

 

各書物の記述については、これを正確無比なものとは考えず、文中史実の誤謬(あやまり)錯簡(さっかん)・矛盾(むじゅん)撞(どう)着・潤(じゅん)色箇所等の発見に努められるように希望するとともに、これらの書物を踏まえて、より正確なもの、正しい裏付け史料に支えられた、次元の高い史料の研究を志向されるよう望みたい。

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                         2012 H24 04 22 追記