天正大地震について

 

白川村に関連した地震を始めとする天災について表にしてみました。 現在の帰雲山は天正13年の天正地震と安政5年に起こった安政地震でも崩れたと見られています。

 

年号年月日      西暦年月日                    記事               

天文16.5

 

 1547  5.19~
   6.7
 飛騨飢饉。白山噴火。白川郷は作物枯渇するという。
 (飛騨編年史要)
天正 13.11.29  1586  1.18  飛騨白川谷、死者300。M7.9
 近江長浜、美濃大垣震火。 同年硫黄岳大噴火し、溶岩山麓道路を埋め、信濃峠一時杜絶するとなるも、噴火の
 ためか地震のためか明瞭ならず。(大日本地震資料)
元禄 16.10.22  1703  11.30  飛騨地方大地震あり。 翌日尚止まず。(飛騨編年史要)
弘化  4. 3.24  1847.  5.8  善光寺地震。 M7.4
 飛騨白川保木脇村山崩れ、人家二戸埋没、男女10人圧死。(飛騨編年史要)
安政  2. 2.1  1855.  3.18  飛騨白川、大牧、保木脇地方地震。 山崩れ、死者を生ず。余震多し。(大日本地震資料)
安政  5. 2.26  1858.  4.9  飛騨潰家709、死者203、山崩れによる水害甚し。越中街道杜絶。 M6.9 (飛騨編年史要)

 

安政五年二月の飛騨大地震について

 

 ★大正時代に書かれた”岡村利平”氏による飛騨史壇の記述から・・・・・
 
 安政二年江戸に大地震があってから四年目の安政五年戌午二月二五日夜九つ時に飛騨国に
 大地震があって最も惨害を極めたのは吉城郡にて小島小鷹利高原の三郷の北部越中国へ近き
 所、大野郡にては下白川郷の村々即ち越中加賀へ近き所とであって村数で言うと七十か村に
 亘っておりその被害調査書を見ると・・・(中略)

 又大川の向こうに小村あり木谷村長瀬村と言其上は別山とて低き山有り其山背に歸雲山とて
 高山有り此山昔崩れて内ヶ島城を潰したる也、今又此山半分破れ前山前村を飛越して川の
 両岸に打ち付ける余り大川をせき止め川上湖となる、後に湖切り出て又川と成り川西に小山
 五つ六つ残れり、
凡十二年後に我通行之を見る  (桐山如松記より)

 +++白川郷保木脇、野谷、大牧村震災の状況+++

 保木脇村山抜け、潰家、即死人、同村往還決損、同村地内木材流失、野谷村浄蓮寺及民家
 半潰、同山内字荒谷山御植木場所山抜け、木品流失、大牧村山内字池之尻御植木場所山抜、
 木品流失等を内容とす。