ひでのレポート

保木脇に被災地地形いまだ残る (2013.5.21発表)

保木脇に被災地形いまだ残る 

              2013 H25 05 21

 

                    帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員活動報告書

 

 先日、岐阜県大野郡白川村保木脇の田口プラント一帯の縦断調査を実施した内容を、活

動記録として紹介します。

 

 2013H250412、五箇山の岩瀬家を見学。帰りは平瀬地区の旅館に宿泊。4/13朝、この間々

帰るのはもったいないので、平瀬にて聞取り調査をする。以前帰雲城の試掘をした場所は

どこですか? O:「田口プラントから山道を北に進んだところだ」と、紙に書いてもらう。

 このメモを頼りに現地へ向かう。この場所かと確認をして帰る。

 後日、家で今回おしえてもらった場所一帯を調査したいがどうしようか考えた。まてよ、

今雑草の新緑が芽吹く前なので、現地で「地表観察」は絶好のチャンスだぞ。でも来年の

調査でもいいか、いや今しかないぞということで調査決行を決めました。さて、現地調査

するのに手ぶらで行こうか、それじゃー何の記録というか成果も得られないと思ってあわ

てて5000分の1地図を用意しました。

 4/26、保木脇、田口プラント北の山道にて、長靴に履き替え、鈴とカウベルを付けて調査

開始8:30。まずいちばん北にある送電線鉄塔を目指す。鉄塔で番号を確認すると、5

3鉄塔だったのでメモをする。そして1(↓の図を参照)の小山へ移動する。1の小山南

から、2の小山に移動する。2の小山から西下の窪地というか低地を目測するとおおよそ

約30mの低さ(比高)があった。めちゃくちゃ深いじゃありませんか。2の小山の西と

南に中ぐらいの岩が散乱していた。このまま南へ歩きたかったが、かなりの困難を伴うた

め断念して引き返した。

山道を南へ進み、山道から鉄塔のある場所を目指した。少し高い場所に鉄塔があり確認

すると、54鉄塔だった(7の場所)。比高は約10mぐらいである。東に歩き3の小山を

攻略する。なぜか小山は南北にながーい距離続いておらず細長い小山状ではあるが途切れ

ているのが理解できない。

確か天正13年の大地震で右岸の山から崩れ落ちた土砂が庄川という川を越えてこちら

側、保木脇のこの辺りまで到達しているのだから小山は南北数百mに長くてもいいんじゃ

ないの?と思った。

次に6の小山の東西2ヶ所ある場所に立つ。地図にはこの6の小山は622mとなって

いる。西に小山(8の場所)が確認できる。そして4の小山をゲットする。比高は約20

mぐらいだ。歩きにくいが南へ移動して、5の小山へ来た。比高は約10mぐらいで、こ

こには携帯電話の中継タワーが立っている場所です。ここから南へ歩き、いったん山道を

また北に進み近くに見える鉄塔へと分け入った。少し高くなっている場所(9の場所)を

確認すると55鉄塔でした。

 あとは、西に戻り山道を北に進み、また東に入り、また西に戻り山道を北に進み、東に

入りを繰り返して、地図に記入をしました。

 現場は雑草が生える前とあって歩きやすく、喜び勇んでピクニック気分で調査できた。

 

そして、現地は「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在していたことに驚いた。

 

なーんだ、約420年(427年)前の天正13年の大地震で右岸の山から崩れ落ちた

土砂岩石がこの辺りまで到達して、堆積している地形がその間々そっくり残っていたんだ

と思いました。あと、場所を移動してデンカ生コン跡東を調査。小山2ヶ所と大岩ごろご

ろを確認した。調査終了10:30。帰路。 ↓が現地で記した地図です。さて、地図に

小山の場所をどう書いたらいいのか分からず、楕円の2重丸(◎)にして、低地部分は丸

に斜線として、谷はT1~T4と記しました。

 

 

 家に戻り、記入した地図を見て気がついたことを述べます。

 

1、高い場所というか小山は、国道156号線西沿いに、1、2、3、4、5、と途切

れ途切れではあるが続いている。

2、次に、7、6、9、と単独の小山が存在している。

3、(小字)後平の山沿いに、A、B、C、D、と小山がある。

4、調査した東西約200m×南北約600mにある高い場所と低い場所の高低さ(比

高)は、目視で約10~30mぐらいだった。

 5、調査した南北約600mの西の(小字)後平の斜面におおよそ4ヶ所の谷が確認で

き、その谷の麓は地図に記した底部部分と一致する。

 6、調査した範囲には「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在している。

 7、天正13年の大地震で右岸の山から押寄せた土砂堆積物は1、2、3、4、5、で

はないかと推測する。

 8、単独の小山がある7、6、9、について、右岸からの土砂堆積物か、左岸からの土

砂堆積物によるものなのかは分からない。

 9、安政2年(1855年)の地震で保木脇を埋めた土砂は国道156号線のある下段

部分だと聞いている。

10、調査した場所は、(小字)後平(あとひら、うしろひら)か、(小字)帰雲川原にな

るのか未確認。

 

 今回、保木脇の54鉄塔一帯の現地調査を実施して帰雲城はどこか?という謎にぶち当

たることとなった。改めて帰雲城の居城(城主の屋形、館)の場所を3ヶ所推測してみた。

1、54鉄塔一帯か?←上段部分であり、水源あり

2、(小字)堂ノ上一帯か?←上段部分であり、谷水源確保可能、古地図に記載あり、

地名も候補

3、(小字)帰雲川原一帯か?←地名が候補

 

↓は、保木脇の(小字)後平の東斜面の谷筋T1~T4

 

家に戻り、記入した地図を見て気がついたことを述べます。

 

1、高い場所というか小山は、国道156号線西沿いに、1、2、3、4、5、と途切

れ途切れではあるが続いている。

2、次に、7、6、9、と単独の小山が存在している。

3、(小字)後平の山沿いに、A、B、C、D、と小山がある。

4、調査した東西約200m×南北約600mにある高い場所と低い場所の高低さ(比

高)は、目視で約10~30mぐらいだった。

 5、調査した南北約600mの西の(小字)後平の斜面におおよそ4ヶ所の谷が確認で

き、その谷の麓は地図に記した底部部分と一致する。

 6、調査した範囲には「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在している。

 7、天正13年の大地震で右岸の山から押寄せた土砂堆積物は1、2、3、4、5、で

はないかと推測する。

 8、単独の小山がある7、6、9、について、右岸からの土砂堆積物か、左岸からの土

砂堆積物によるものなのかは分からない。

 9、安政2年(1855年)の地震で保木脇を埋めた土砂は国道156号線のある下段

部分だと聞いている。

10、調査した場所は、(小字)後平(あとひら、うしろひら)か、(小字)帰雲川原にな

るのか未確認。

 

 今回、保木脇の54鉄塔一帯の現地調査を実施して帰雲城はどこか?という謎にぶち当

たることとなった。改めて帰雲城の居城(城主の屋形、館)の場所を3ヶ所推測してみた。

1、54鉄塔一帯か?←上段部分であり、水源あり

2、(小字)堂ノ上一帯か?←上段部分であり、谷水源確保可能、古地図に記載あり、

地名も候補

3、(小字)帰雲川原一帯か?←地名が候補

 

↓は、保木脇の(小字)後平の東斜面の谷筋T1~T4

地図や古地図等からみる皈雲山と帰雲山名の表現時期について

                 帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書

 

 

岐阜県大野郡白川村保木脇地区にある皈雲(かえりくも)山(1897m)と、白川村
木谷地区にある帰雲山(1622m)の名が地図や古地図等でいつ頃から記されているのか、調べてみた。この両山の位置関係の混同を防ぐためにここでは、保木脇地区の皈雲山がある場所を「庄川西左岸」とし、木谷地区の帰雲山がある場所を「庄川東右岸」とした。
 庄川西左岸保木脇地区にある山岳名や字名について
年不詳     『大野郡山絵図』後写に「歸雲山」山名、「帰雲川原」名が登場る。
 享保2(1717)年『享保年度山林繪図面』に「帰雲山」、孫字「帰雲川原」名あり。
 天保年間(1830年~)『天保年中山林図面』に「帰雲山」山名あり。
天保年間(1830年~)『保木脇村山絵図』に「歸雲山」山名あり。
 天保3(1832)年 『天保度山地繪図面冩』に「帰り雲山」山名あり。
  天保3(1832)年 『飛騨国絵図』「内藤城趾、カヘリ雲川」名あり。
 <江戸時代が終わり、明治になると皈雲という表記が出てくるのには、時代背景があるようだ>
明治元年~4(1868~1871)年『飛騨国絵図』「皈雲城跡」名あり。
明治元年~4(1868 ~1871)年『飛騨国絵図 全』「皈雲城跡」名あり。
 <↑で、帰雲城跡とされる城跡の古地図(絵図)は3枚が現存する>
明治年間(1868年~)『保木脇村山絵図』「帰雲山」山名あり。
明治年間(1868年~)『飛騨国総山絵図』「帰り雲山」山名あり。
明治年間(1868年~)『官許飛騨国全図』「皈雲山」山名あり絵図表記。
明治13(1880)年『岐阜県管内地図』「皈雲山」山名あり絵図表記。
明治18(1885)年『飛騨国明細全図』「皈雲山」山名あり絵図表記。
<↓以降から皈雲山の名が消える>
明治43(1913)年  1/5万地図「白川村」庄川西左岸 三角点1897.3mあり。
<これは、大日本帝国陸軍省参謀本部陸地測量部が明治24年~大正元年測図した地形
図で、等高線や三角点があり、現在と同等の地図の先駆けと思われる>
大正14(1925)年 1/32万「岐阜県全図」庄川西左岸「魄靈山」絵図表記あり。
<この地図は等高線がなく、「魄靈山」の位置が絵図表記であり、皈雲山のことなのか判断できない>
 <↓に皈雲山の資料について2点を挙げる>
1990年 平成2年調製「番号 11 種別 三等三角点 基準点名 皈雲山 基準点コ
ード 5436-26-3901 座標系 07系緯度 36°11′34″ 経度 13
6°51′45″ 標高 1897.33m 真北方向角 0°10′46″ 1/5万図名 白
川村 行政コード 21604」『成果表』建設省国土地理院地方測量部 平成2(1990)年07月11日調製
「番號 良第三拾號 所在 岐阜県飛騨國大野郡白川村大字保木脇字弓ケ洞 地目 山林
二百六十五番 順路 白川村大字平瀬ヨリ白川ニ深ヒ一里・・・(略)」『明治時代に作成さ
れた点の記』「(30)皈雲山 測站」 国土地理院地方測量部
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庄川東右岸木谷地区にある山岳名や字名について
年不詳        『大野郡山絵図』に「帰雲穴」名あり。
享保2(1717年) 『享保年度山林繪図面』に「歸雲 」名あり。
天保3(1832)年 『飛騨国絵図』に「カヘリ雲」名あり。
 <↑の3点は、いずれも山という表記は1つもない>
 <昭和43年に「帰雲山」名が表記されるが、その前の帰雲城関係の出来事を挙げる>
 昭和36(1961)年4月4日朝日新聞記事、続ふるさとの史話「帰雲城と照蓮寺」
年不詳 白川村の小学校でNHKが民話帰雲城を放送する
昭和43(1968)年  1/5万地図「白川村」庄川東右岸「帰雲山」名あり。
 昭和45(1970)年  1/5万地図「白川村」庄川東右岸「帰雲山1622」mあり。
昭和46(1971)年   1/5万地図「白川村」庄川東右岸「帰雲山1622」mあり。
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庄川西左岸保木脇地区にある皈雲山(1897m)の位置は、動画サイト「埋もれてい
た皈雲山 4A」を参照されたい。

  参考地図等
『享保年度山林繪図面』(大野郡白川村役場蔵?)
『天保度山地繪図面冩』(白川村役場蔵?)
『飛騨国絵図』色彩 中州美郷(岐阜県立図書館所蔵)
『飛騨国絵図』高山県時代 色彩(高山市郷土館蔵 角竹郷土史料2-58地図2)
『飛騨国絵図 全』木版刷彩(岐阜県立図書館所所蔵)
『飛騨国総山絵図』明治時代 色彩(高山市郷土館蔵)  
『官許飛騨国全図』(岐阜県立図書館所蔵296.38マ)
『岐阜県管内地図』(岐阜県立図書館所蔵290.38ギケ)
『飛騨国明細全図』(岐阜県立図書館所蔵296.38シ)
 1/32万「岐阜県全図」(岐阜県立図書館所蔵290.38ギケ)
 1/5万地図「白川村」(岐阜県立図書館所蔵)
  
                               2012 H24 12 30
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書物からみる帰雲城主内嶋氏の居城と場所の呼称について

                                                                      帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書

 

岐阜県大野郡白川村保木脇地区にあったとされる帰雲(かえりくも)城の、城主内嶋
(うちがしま)氏の居城と場所の呼称に関する記述を挙げてみた。
 寛正年中(1460~1465年) 「歸雲山古城 御花園天皇御代、寛正年中、信濃國松城住人、楠氏ノ末葉ナル、内嶋(ウチガシマ)(ウチガシマ)將監橘為氏、足利義政將軍ノ命ヲ奉テ、[照蓮寺記]白川ニ來リ、其威勢ヲ振ヒ、村々ヲ兼領シ、寛正ノ初、牧戸ニ城ヲ築キ住居(スマヰシ)(スマヰシ)、漸々村々ノ随從に依テ、後亦、保木脇村帰雲(カヘリクモ)山ニ、城ヲ築テ、勢強ク、小鳥郷ハサラニ、越中國砺波郡川上郷ヲモ押領セリ、家臣ニハ、山下 尾神 川尻等ノ勇士有テ、」『斐太後風土記卷八、九 大野郡白川郷小鳥郷白川郷』(富田家文書)高山市まちの博物館所蔵 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>
 <『斐太後風土記』は、明治(めいじ)6(1873)年成立で、「保木脇村帰(カヘリ)雲(クモ)山ニ、城ヲ築テ」
と記しているのは、庄川という川の西左岸、保木脇地区の皈雲山(1897m)側を指していると思われる>
「帰雲城 在于同郷保木脇村 内島上野介橘為氏寛正年中築之 其子上野介雅氏兵庫頭氏
理等居之國説ニ云〃 内嶌ハ本苗橘氏和田七郎橘正氏ノ後裔タリ 白川郷ニ於テ甚タ猛威ヲ
震イテ近郷ヲ押領セリ足利将軍家ニ奉仕ス」『飛州志 六』(住香草文庫)(住香草文庫目録 平成元年10月 3.02地誌 長谷川忠崇(ただたか)編 上野氏旧蔵 写本 美半10冊 3.02-1)高山市まちの博物館所蔵
<『飛(ひ)州(しゅう)志(し)』は、延享(えんきょう)2(1745)年成立で、帰雲城があった場所を保木脇村と記している>
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 文亀年間(1501~1503年) 俗道場(浄蓮寺)「同郷野谷村ニアリ同宗同寺末開基初祖釋浄西文亀年中建之□本尊裡書曰方便法身尊形大谷本願寺釋實如在判飛州白川郷照蓮寺門徒保木脇村願主浄西」『飛州志』<「白川郷における帰雲の付く固有名詞の成り立ち
ー帰雲城という名の城は存在したかー」S氏著4頁から引用>
 <内嶋為氏が、寛正5(1464)年ごろ帰雲城を築いてから、37年後以降の文亀年間(1501~150 3年)に「保木脇村」名が初めて登場する
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1527年 大永7年 3月29日「謹而言上 抑此一道場寄合人数中 御掟之旨於
違背輩者着合同座 堅可令停止者也 仍後日状如件 大永7年 3月29日 帰雲一道場衆中 照蓮寺 参」『白川郷ゆかりの寺院』73頁に「七 帰雲一道場衆言上状案」所収(勝鬘寺文書)(古文書)
 <大永7(1527)年の文書で、道場名は村名を付けることが知られているが、ここでは、保木脇道場ではなく、「帰雲一道場」と記していることから、「帰雲」名が当時、普段に使われていたことが伺える>
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1573年 「天正元年 白川牧戸ノ城主内ヶ嶋上野介雅氏(マサウチ)二月ノ末ニ卒
去セラレ 嫡子兵庫頭氏理(ウヂマサ)ノ世トナリ 牧戸ハ要害浅間ナレバ下白川保木脇ノ上帰雲(カヘリクモ)山ヘ城ヲ移サント思立テ当天正ノ始ヨリ領分ニ臨時ノ課役ヲ懸 城ノ普請ヲ専トス」『荘川村史 下巻』26頁に「白川年代記 益戸本」所収 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>
<『白川年代記』は、天保2(1831)年の書で、「保木脇ノ上帰雲山ヘ」と記しているのは、庄川西左岸、保木脇地区の皈雲山側(1897m)を指していると思われる>
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1576年 天正4年「内ヶ島帰雲の堡(とりで)障を屠(ほふ)るべしとて山吉玄蕃
允等その勢八〇〇余兵、中略、差し向けらる、内ヶ島は是より響き信長に与(くみ)して越前へ手を掛け、折節彼国に事有りて先頃より師(いくさ)し留守居の兵而己(のみ)楯籠りしが味方一旦に攻落し悉く分捕して塩谷が人数を番隊として速やかに引返しぬ云々」『城118号』「帰雲城地底の黙示録」 (1985 S60 11/15)19頁に「北越軍談(北越家書)」所収
 <天正4(1576)年、上杉(謙信)軍が飛騨征伐を行った際の上杉軍側からの記録では、保木脇と書かず、「帰雲の堡障」と記録していることから当時、「帰雲」名が広く知れ渡っていたことが分かる>
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 「古老曰(いわく)、飛騨國之内白川郷内ヶ嶋と申所之領主内ヶ嶋兵庫と申候。白川郷不残越中赤尾筋へ懸て領主也。天正十年越後長尾景勝、上杉と號、越中へ乱入之砌、越中之國侍椎名内ヶ嶋と依爲縁者、爲加勢越中へ出陣留守之節、家老川尻備中と申者致別心。(略)
兵庫も即刻在所へ帰宿領分之者共出合悅申事難盡(つき)申候兵庫も不慮に 二度面々へ
逢候事大慶不過之候然者祝儀ニ能申付面々へ見物爲致此中之苦勞拂させ可申由ニ而、越前より猿楽共呼寄領分之者ども茂内ヶ嶋へ揃、明日能興行之前夜九ツ過、内ヶ嶋之前大川有之候、其向に高山御座候、而亦其後ニ帰り雲と申高山御座候、余り高山故堂々雲山ニ当り、跡江帰り申候ニ付而帰り雲申候。右之帰り雲之峯二ツ三われ、前之高山竝(ならびに)大川打越、内ヶ嶋打埋申候、人一人茂不残内ヶ嶋之家断絶」『飛騨鑑』(古文書)(岐阜県図書館所蔵)
<『飛騨鑑』は、1632~1650(寛永9~慶安3)年頃の文書で、詳細な記述が
ある反面、場所に関する保木脇や帰雲という書き方がなく、「飛騨國之内白川郷内ヶ嶋と申所」という地域名の記録のみである> 1586年「天正13年地大震飛騨西境阿古白川山崩壓殺三百餘家盖此也」『幽討余録』
1586年「天正13年 11月27日 越中州利波郡木船城大地震ニテ三丈バカリ震
沉シユエニ夫ヨリ今石動ヘ地ヲ引タリ並ニ 此時飛騨國阿古白川ト云フ町在家三百餘軒ノ所ナルガ地震ニテ高キ山崩レ落テ男女數百人一人モ残ラズ人家トモニ三丈バカリノ下ニナリテ在所ノ上ハ艸木モナキ荒山トナリヌ」「此時歸雲山の城郭大地震にて大山崩落圧埋め内島氏理一族主従男女僕婢城下の人馬に至るまで不残圧死して内島家断絶せり 寛正年中より世三代年は百二十余年にして亡ぶ」『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷 保木脇村』297頁に「三壺聞書」所収
 
1586年「天正十三年十一月廿九日亥子剋ヨリ大地震初而十二月廿五日マテ昼夜動申
候、其時飛州白河帰雲ノ在所両山打崩、則屋形内嶋兵庫頭氏理其外五百人余、牛馬等マテ一時ニ亡申候、彼所ニテモ小白河丸山ミゾウレ、帰雲其外江州左保山、長浜、尾州河内、越州北ノ庄鶴賀、日本国中在々所々及滅亡処多、」『白鳥町史』76頁に長滝経聞坊文書二「年代記録(抄)」所収
 <寛文9(1669)年の経聞坊の記録で、城主内嶋氏の居た場所を「飛州白河帰雲ノ在所」と記していることから、郡上地域でも「帰雲」名が一般に知れ渡っていたことが分かる>
1586年「天正13年乙酉11月29日 亥子剋ニ大地震初候而十二月廿五日迄夜昼ユリ申巳来春迄何程ユリ可申候哉 不存事共 白河帰雲両山打崩内嶋殿氏理其外五百人余牛馬等迄一時ニ死申候」『長滝寺文書 荘厳講執事帳』(古文書)
 
盛數の項「天正13年 11月29日 大地震ニ白川帰雲山川崩レ屋形不残突埋 内ヶ嶋主従一時ニ滅亡 常堯も右之内也 白山大権現ノ御神罰也」『遠藤家系図写』の盛數の項(毛筆書)(岐阜県立図書館所蔵)
1586年「七郎常堯殿ハ縁者故飛州白川内嶋兵庫頭氏理方へ落行(略)天正13年1
1月29日亥子刻大地震ニ而白川帰雲之山崩 屋形上下五百人余一時滅ス 此節常堯殿モ御誓去」『白鳥町史 史料編2』275頁に「郡上軍記」所収 市村静子家文書(市村博文氏所蔵)
1586年「七郎常堯殿ハ縁者之内ヶ嶋兵庫頭氏理を頼ミ飛州白川江没落被致候(略)
天正13年 11月29日 亥刻大地震ニ而白川帰雲山之山川崩レ屋形上下ノ者五百人
餘一時滅亡 此節常堯も御逝去」『郡上八幡町史 史料編』19頁に「遠藤家御先祖書(写)」所収 慈恩寺所蔵
      
1586年「天正13年 11月29日 大地震ニ而白川帰リ雲山川崩レ屋形不残突埋
内ヶ島主従五百余人一時ニ滅亡 常堯も右の内也 白山大権現ノ御神罰ニ而有之」『大和町史史料編』16頁に「2東家系図(2)」所収 日置吾郎所蔵
「一 坂本村之内水沢上と申所ニ家数七拾軒有之候 飛州白川帰り雲之城主内ヶ島兵庫
頭氏理軍用金不足ニ付 白山ニ有之黄金仏ヲ取寄セ鋳潰シ用金ニセんと追々人を遣といへとも取来候事難叶(略)帰リ雲屋形突埋メ人数五百余人突埋ム 常堯も右の内也」『大和町史史料編』23頁に「2東家系図(2)」所収 日置吾郎所蔵
1586年「天正13年 11月29日 夜四ツ半時大地震夫より十余日不止 飛州の
歸雲と申在所は内嶋と云奉公衆ある所也 地震にて山崩山河多せかれて内嶋の在所に大洪水かせ入て内嶋一類地下の人にいたるまで不残死たるなり 他國へ行たる者四人のこりて泣々在所へ歸りたる由申訖 彼在所は悉淵になりたるなり」『濃飛両国通史 下巻』14頁に「宇野主水記・貝塚御座所日記」所収
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1587年「天正15年 11月29日 天地震動裂ルカ如ク、水沢上村、帰雲ノ城山一
時ニ崩懸リ突埋ム 西洞ノ釜カ洞、赤崩同時ニ山脱シテ跡形ナシ 此時帰雲ノ城地内ヶ嶋6
代の蹤跡一時ニ断絶シ、年数氏祖経喬ヨリ283年ニシテ亡ブ」『荘川村史 下巻』28頁に「白川年代記益戸本」所収
1587年「天正15年頃 帰り雲のうしろの大山崩落て城も民家もつき埋め大川をせ
ぎ切三里川上へたたへて内ヶ嶋の一族此時断絶す」『白川奇談』(古文書)(岐阜県立図書館所蔵)
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「白川郷帰雲(かへりぐも)の城下をあこといふ、城主内ヶ嶋兵庫氏理といふ。家老に
川尻備中守氏信・山下豊後守定安と申す」『神岡町史特集編』240頁に「八 飛騨太平記(全)」所収 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>
「爰に阿古白川の領主内ヶ島兵庫頭氏理は、父豊後守為氏より、此の帰雲の城に居住せ
しが、天正11年の冬、住府帰雲城を始め諸士の館舎・民家まで、一戸も餘さず地震の為に、大地の底へ埋められ、老少男女餘さず横死したりける」『神岡町史特集編』338頁に「九飛騨群鑑(全)」所収
「此の頃同郷保木脇と云ふ所に、帰雲と云ふ峻山あり。此の山麓に究竟堅固の城を築て、近隣を領知する人あり。内島豊後守為氏と云ふ。」『神岡町史特集編』313頁に「九 飛騨群鑑(全)」所収
「天正年中内島ノ居城帰雲山ノ城廓大地震ノ為ニ滅亡ノ時」『飛州志 六』(住香草庫)
(住香草文庫目録 平成元年10月 3.02地誌 長谷川忠崇(ただたか)編 上野氏旧蔵 写本 美半10冊3.02-1)高山市まちの博物館所蔵
「牧戸村 其の最寄にて要害を撰び、保木脇村の(彼三村より、奥を見立てしは、ふか
き心ありてなるべし)歸雲山に、新たに城壘を築きて移住、」『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷 牧戸村』265頁
「帰雲山古城 保木脇村歸雲山に城を築て勢強く」『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷
保木脇村』296頁
「此時歸雲山の城郭大地震にて大山(おおやま)崩落圧埋め」『三壺聞書・斐太後風土記卷之九』297頁
「同郡白川保木脇村之山ニ古城之跡あり帰雲と云山ナリ城主ハ内ヶ嶋兵庫頭と申也今モ
帰雲と云也」『飛騨国治乱記』(古文書)(岐阜県立図書館所蔵)
「同郡白川保木脇村に古城跡有レ之、 帰(かえ)り雲(ぐも)と云 城主は内ヶ嶋兵庫頭と云 今に其城山之上迄は雲来りて、来た方へ雲の戻る事妙也」『神岡町史特集編』371頁に「二 飛州見聞記(抄)」所収 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>
「保木脇むら帰り雲山の麓也内ヶ嶋の時代には家数千軒もありけるよし」『白川奇談』(古文書)(岐阜県立図書館所蔵)
「白川城主 内ヶ島兵庫頭氏理(うじただ)、 氏理家老 川尻備中守氏信」『神岡町史特
集編』155頁に「五 飛域太平記(全)」所収 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>
1585年「天正13年 8月 法印公先白川之城を、忍の者を似て八月十日の夜、丑
の刻に火をかけ城中の男女一時に焼死す。于今丑の刻には、時を揚げて男女哭する声聞ゆ。
城主内ヶ嶋兵庫頭氏理(うじただ)も、あへなくぞ亡びけり」『神岡町史 特集編』166
頁に「五 飛域太平記(全)」所収 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>
「世移り人替りて牧戸の城地を改易して保木脇といへる所にぞ移り給ひける。此時の城
主をば内嶋兵庫守氏理とぞ申ける。(略)城より山一つへだててうしろなる歸雲といへる山われて飛来り保木脇の城に打かけければ忽に地中の底に埋れて今ありし城郭は只土山とぞ成にける」『岷江記』49頁
「去程に城内より川東の大山崩飛て氏理の居城は不及言ニ其近辺不残打つぶし大山崩落
て白川の大河水切水ささへて城下より上は海のごとく川下の村々不残押破村方の者共取物取合ず皆散々ニ山へ迯上り前代未聞の事共也 神罰天罰即時に当事難 往昔は帰雲其後は帰山なりに今至て其所を帰雲川原と言ならし候」『飛騨国中案内 第三巻』111頁
                  
系譜 山下氏頼の項「飛州ノ屋形ハ號内嶋(ウチガシマ)者其ソ先住ス武蔵國ニ傳云フ(略)
飛州ニ居ス白川ノ庄歸雲(カヘルクモノ)郷ニ(略)白川ノ屋形ト家紋二本松幕紋圏内十文字」『山下家系譜 貮』(毛筆書)< 「 」内の振り仮名は原文のままである>
伝承 「その頃帰雲に狩人あって或時加賀の白山に登り別山より観音の金像を盗取って
密かに水沢上の金山に持行き彼金像を吹分け鉄砧にて打砕んとせしが忽ち雷電霹靂し烈風枝を砕き暴雨塊を破る 日月の光を失ひ昼夜を不分事七日 時に天正十一年十月二十九日大山崩れ落ちて帰雲 水沢上の両村一時に滅亡し民家悉く地底に埋れ老若男女更に残者なしと也」『神岡町史 特集編』201頁に「飛騨略記」所収
『還来寺歸雲家系譜』(毛筆書)
「為氏(の項) 内島豊庫守又上野介内島五郎季氏ノ長子ナリ(略)斐陀白川郷ニ来リ
牧戸城ヲ築キコレニ居ル 寛正五甲申年歸雲城ヲ築キ又コレニ居ル(略)為氏廿七才ニシテ氏理(の項) 内島兵庫守天正年中歸雲城震災ノ為メ滅亡ス」
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1858年「安政5年2月25日夜9ツ頃大地震夜明まてつよくゆする也 先第一白川
郷保木脇村家三間計り土中に入人馬共死す 谷奥より大木大石をゆり出して家を潰す 又大川の向に小村あり木谷村長瀬と言其上は別山とて低き山有り其山背に歸雲山とて高山在り此山昔崩れて内ヶ島城を潰したる也 今又此山半分破れ前山前村を飛越して川の両岸に打附る余り大川をせき止め川上湖となる 後に湖切出て又川と成り川西に小山五ツ六ツ残れり 凡12年後に我通行之を見る」『飛騨史壇 8巻 3号』28頁に「桐山如松記」所収
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 1. 内嶋氏の居城があった場所の呼称は?
記述から城主内嶋氏の居た場所を「帰雲(かえりくも)」と呼び、帰雲にあった山を「帰
雲の山」と記録しているものが多い。
 2.帰雲のあった場所として2説を紹介する。
1、 帰雲=現在の保木脇地区のみとする説
2、 帰雲=現在の保木脇地区と木谷地区と大牧地区を含めた地域とする説(帰雲郷)
 3.城主内嶋氏の居城の呼称は?
城、砦、館、という記述でなく、「帰雲屋形」という記録が多いことから、「帰雲の屋形」と呼ばれていたことが分かる。
内嶋氏の時代に(帰雲)城と呼ばず、城と異なる屋形と称していた居城構造を示唆して
いる論文は、
昭和60(1985)年5月『城』「帰雲城地底の黙示録 概説」S氏著、
昭和60(1985)年11月『城』「帰雲城地底の黙示録 内ヶ島領国支配の特徴」S氏著、
昭和61(1986)年2月『城』「帰雲城地底の黙示録 屋形の位置備考」S氏著、を参照された
い。おわりに
 文献を調べたが、庄川という川の東右岸、木谷地区と大牧地区に帰雲城があった・内嶋氏が居たという記述は1つも見つかっていない。

                                   2012 H24 12 26

帰雲城主内嶋氏の三家臣の活躍時期について

帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書

 


 帰雲城主、内嶋氏が白川郷で1464年~1586年までの120年余り、家臣の山下氏、川尻氏、尾上氏についての活躍時期が気になっていたので、内嶋氏の年齢と共に年号順に分かりやすく並べてみた。

 

帰雲城主;内嶋為氏→雅氏→氏利→氏理

 (帰雲城の支城)向牧戸城主;川尻備中守氏信

 (帰雲城の支城)荻町城主;山下大和守時慶→山下大和守氏勝

 尾神村?;尾上備前守氏綱 内嶋氏利の兄弟姉妹(女)を妻とする

 ・・・・・・・・・

 内嶋為氏より先代の記述を『白川年代記』から紹介する。人物名の信憑性については疑問が残る。

 

1355年「文和4年、内ヶ嶋新蔵人経匤(つねまさ)荻町に城を構ヘ居住す」『荘川村史 下巻』21頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1374年「応安7年、内ヶ嶋経薫(つねしげ)牧戸村に居城す。3代目牧戸村より萩

町に移住す」『荘川村史 下巻』61頁に「白川年代記 三島本」所収

 

1411年「応永18年、内ヶ嶋弾正忠経薫(つねしげ)弾は、父新蔵人経匤(つねまさ)とともに牧戸山に砦を構ヘ立てこもる。その家臣川尻備中牧戸村に住し、山下豊前萩町に屯す。弓大将荒川右馬丞新渕村に住し、市村縫殿介は越中五ヶ山に在て」『荘川村史 下巻』63頁に「白川年代記 三島本」所収

 <内嶋為氏より先代の、内ヶ嶋氏の家臣として牧戸村の川尻備中がいる。萩町には山下豊前が住むが荻町城ではない。新渕村に弓大将荒川右馬丞、越中五ヶ山に市村縫殿介の名がある。>

 ・・・・・・・・・・

 1420(応永27)年頃、内嶋為氏(ためうじ)生まれる?

 

1443(嘉吉3)年以前に、内嶋雅氏(まさうじ)生まれる。

 <為氏23歳頃>

 

(西園寺家説)一代経喬(つねたか)→二代経匡(つねまさ)→三代経薫(つねしげ)

→四代氏綱(経つね)→五代為氏→六代雅氏

1449年「宝徳元年、牧戸城主内ヶ嶋経薫(つねしげ)の子、大監物氏経(うじつね)の子、太夫将監為氏代々相続する」『荘川村史 下巻』23頁に「白川年代記 益戸本」所収

<為氏29歳頃>

 

 内嶋為氏活躍時代、内嶋雅氏活躍時代~↓

1460年頃「寛正の初、牧戸村に城を築き住居する。のち保木脇村歸雲山に城を築て」『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷 保木脇村』296頁

 <内嶋為氏40歳頃、内嶋雅氏17歳頃>

 

1464年「寛正5年、内ヶ嶋為氏、保木脇村に帰雲城を築き移住。與(あたえ)牧戸

城於家老川尻備中某居之[三郡沿革]」『飛騨国大野郡史 上巻』187頁に「三郡沿革」所収

<内嶋為氏の家老、川尻備中が確認できる。為氏44歳頃、雅氏21歳頃>

 

「長享2(1488)年8月下旬内ヶ嶋、中河修理亮を隊将として、会稽の恥辱を雪(そそが)

んと其勢500余騎、越中より攻上りける」『神岡町史 特集編 』199頁に「飛騨略記(全)」所収

 <為氏68歳頃、雅氏45歳頃>

 

1500年「明応9年、内ヶ嶋為氏悪病にて死す」『荘川村史 下巻』24頁に「白川年代

記 益戸本」所収

<1460~1500年まで内嶋為氏、雅氏の家臣で確認できたのは、川尻備中守氏信

である。内嶋為氏死去80歳頃、雅氏57歳頃>

 

 内嶋雅氏活躍代~↓

1501年代 文亀年間「此節より国土の騒ぎも静まる程に、文亀の頃は川尻備中守よ

り白川郷海塩村道場へ嫡娘を呉度由、熟談して家住居繕(つくろ)い普請等改め、備中守を賞しける。此故備中守より仏閣の寄進にて四間四面の坊舎建立ありしかバ、増々繁昌と見えし」『大系真宗史料』327頁に「願生寺由来(抄)」所収 

 <この頃、牧戸城主の川尻備中守は、内嶋為氏白川郷入国前からあった海上村の海塩道場へ、地理的重要性も含め嫡娘を送り、仏閣坊舎を建て手厚く庇護している。雅氏58歳頃>

 

1503(文亀3)年以前に、内嶋氏利(うじとし)生まれる。

 <雅氏60歳頃。>

 

 1504(永正元)年以後に内嶋氏利の兄弟姉妹(女)が生まれる。のちに尾上備前守氏綱の妻となる。

 

1514年 永正11年 <雅氏書状>「大白河湯之事 被道切候者 自他可然候 就

其他所之衆 湯ちん之儀 幸千代殿江永代進置候 仍而為巳後之状如件 永正11年 甲戌7月10日 雅氏(花押)照蓮寺」『勝鬘寺文書』(古文書)

 <内嶋雅氏、71歳頃の書状>

 

1514年「永正11年 帰国して今は名躰不二の荘厳調へ、その秋照蓮寺明心、了

教御父子にそのほか人数を招き移徙修行事終りて、一入の色こそ増りける。御酒を進め奉るころは八月末つかた、はや夕日も低(かたむ)けば、若き輩は庭前にて踊りけるを、勝手に居ける若者どもが提灯を点して出しければ皆夜に入りしまで遊び居て更(ふけ)て各々帰らるゝ。その供人の提げ行く提灯に家々の家紋、三嶋の家は三つ星に五葉笹、内ヶ嶋家は三つ巴(ともえ)、山下豊後守定安は三蓋松、川尻備中守氏信は九曜の星の、光は次第に遠ざかり離れ離れて見え隠れになりけるに、踊りは鶏の八声も過ぎ、終に明行となりにける。これ仏法繁昌の基かと見へし」『高山別院史 史料編』123頁に史料3「願生寺由来」所収

 

 <内嶋雅氏の家臣である、山下豊後守定安と川尻備中守氏信の名がある。この記録は、白川郷の海上村にあった海上道場(のちの願生寺)が招いたうたげで、当時の白川郷での力関係を知る、三嶋家・内嶋家・山下氏・川尻氏の4人物名が書いてある。内嶋雅氏71歳頃、氏利11歳頃>

 

1531年「享禄4年3月、山科本願寺家宰下間實英(しもつまじつえい)、書を飛州内島氏へ送り居城炎上の事を慰問(いもん)す」『飛騨編年史要』167頁

 <雅氏88歳頃、28歳頃>

 

1536年「天文5年3月12日、飛騨國照蓮寺子息のぼり、兄弟三人、内嶋上野子息

二人叉上野弟の子三人上洛。肴二獻亭にてあひ、一人をは兵庫助、叉刑部少輔、此兩人内嶋子、叉玄番助、叉喜四郎、叉九郎、以上五人。叉尾上右京亮(すけ)禮(れい)三百文到來此時に照蓮寺息に申事には、明日朝飯此方にて、内嶋の衆ヲ可取沙汰之由兼申へと申。内嶋より書状兩通のぼり、叉爲音信壹(いち)兩到來」『石山本願寺日記』24頁に「證如上人日記・天文日記」所収

 

 <この記録に尾上氏の名が登場する。尾上右京は尾上備前守氏綱と思われる。雅氏93歳頃、氏利33歳頃>

 

1536年 「天文5年3月25日、内嶋子息兵庫ニ織物一端、弟刑部少輔ニ織物、玄

番ニ織色一面、喜四郎ニ織色一面、九郎ニ織色一端、内者山下ニ織色一端、爲返禮内嶋上

野へも書状爲返禮織物一端遣(つかわす)」『石山本願寺日記』27頁に「證如上人日記・天文日記」所収

 <山下?>

 

1539年 「天文8年11月14日、六角へ返事ニ、内嶋事ハ其身奉公之人、此方之

所堪に隨ざる人、不可有其・彼知行事會以不知之、結句彼郡内ニ内嶋被官事ニ就テ慣之儀返々門下事者面向之儀、此趣具進藤方申越させ、右之通内嶋方へ申下、此儀委書下彼案文寫(うつし)下、其文言ニ、此等趣以分別可爲遠慮肝要由認之」『石山本願寺日記』312頁に「證如上人日記・天文日記」所収

  

1539(天文8)年、内嶋雅氏没

 <1500~1539年まで内嶋雅氏の代に、山下大和守時慶・川尻備中守氏信・尾上備前守氏綱が確認できる。雅氏死去96歳頃と長寿?、氏利36歳頃。>

 

 内嶋氏利活躍代~↓

(年未詳) 19阿名院道雅書状「内嶋豊後殿宿所 阿名院道雅 経聞坊より其様へ御状今拝見候仍5百貫而一宇之所 五十貫経聞坊へ可進事 心得申候(略)此旨向後之支証可有御立候恐惶謹言卯月八日 道雅(花押)」『白鳥町史 史料編』922頁に「12経聞坊文書」所収

 

「起請文 右旨趣者 今度一乱之儀仁付而 内嶋殿 照蓮寺以御扱属無事候 然間於末

代 対鷲見殿互成水魚之思 無別儀可申談候 於此上自然之時 中意申族出来候共 大小

之事共遂直談 可申合候 万一此旨於偽申者 永世被相放御門徒中 罷蒙阿弥陀如来之御罰於来世者 可堕在無見奈落者也 仍起証文如件 遠藤新兵衛入道 胤秀(花押) 野田左近大夫 常慶(花押)十二月十七日 ・蓮寺 参」『勝鬘寺文書(もんじょ)』

 

「起請文 右旨趣者 今度一乱之儀仁付而 内島殿 照蓮寺以御扱属無事候 然間於

末代 対鷲見殿互成水魚之思 無別儀可申談候 於此上自然之時 中意申族出来候共 大

小之事 共遂直談 可申合候 万一此旨於偽申者 永世被相放御門徒中 罷蒙阿弥陀如来

之御罰 於来世者 可堕在無見奈落者也 仍起証文如件 遠藤新兵衛入道 胤秀(花押)

野田左近大夫 常慶(花押)十二月十七日 ・蓮寺 参」『白川郷ゆかりの寺院』86頁に「十七 野田常慶 遠藤胤秀連署起請文」所収(勝鬘寺文書)

 

1543(天文12)年、内嶋氏理(うじまさ)生まれる。

 <氏利40歳頃>

 

1543年「天文12年、從内嶋兄弟就年始誕生有音信」。「内嶋兄弟へ就年始誕生還禮遣之」『石山本願寺日記』444頁「證如上人日記・天文日記」所収

 

1547年 「天文16年12月11日、飛州内島兵庫助氏利卒去に付、遺族より大阪

本願寺へ志納金五百疋を進上し、是日證如金千疋を送りて香典となす」『飛騨編年史要』180頁

 

1547(天文16)年、内嶋氏利没

 <1539~1547年まで内嶋氏利の代は、家臣の主だった記録なし。氏利死去44歳頃、氏理4歳。>

 

 

 内嶋氏理活躍代~↓

1549年 「天文18年、飛州白川内島兵庫頭氏利之女美濃國郡上東(とう)下野守

常慶の嫡子藤七郎常堯(つねたか)に嫁す。以上按ずるに此氏利と云うは氏理なるか」『飛州志卷第六』180頁

 <氏理6歳>

 

1551年 「天文20年6月29日、内嶋夜叉熊母、同豐後母、豐後守、豐後妻四人

上津仍以肴一献對顏、豐後母、豐後守以一禮飮之、各以一盞愚(おろか)盃勸之、豐後盃者上野介飮納之、予四度呑小童へ、右衆雖(いえども)可致對面之由、誰々にも無對面之由、申出之處禮錢被出之、仍百疋夜叉熊母五十疋ヅ、豐後母、豐後守二人椙原十束豐後妻此分」『石山本願寺日記』630頁に「證如上人日記・天文日記」所収

 <氏理8歳>

 

1559年 永禄2年、「遠藤盛数が東氏を滅ぼす。東常堯(つねたか)は追われ、妻の父である帰雲城主内ヶ島氏理のもとへ逃げよせた。」 <氏理16歳>

 

1561年 永禄4年、東常堯と内ヶ島勢500余騎が遠藤氏を攻めるが迎撃され白

川郷へ敗走『城101号 深戸城私考』(1981 S56 9/10)23頁に「高鷲穴洞村伝右衛門祖鷲

見保能旧記」所収

 <氏理18歳>

 

1568(永禄11)年、山下氏勝(うじかつ)生まれる。白川郷荻町城主、山下大和

守氏勝<氏理25歳>

 

1576年 天正4年「内ヶ島帰雲の堡障を屠るべしとて山吉玄蕃允等その勢800余

、中略、差し向けらる、内ヶ島は是より響き信長に与して越前へ手を掛け、折節彼国に事有りて先頃より戦いし留守居の兵而己立てこもりしが味方一旦に攻落し悉く分捕して塩谷が人数を番隊として速やかに引返しぬ云々」『城118号』「帰雲城地底の黙示録(1985 S60 11/15)14頁に「北越軍談(北越家書)」所収

 <氏理33歳>

 

1578年「天正6年6月、越中砺波内ヶ嶋の領分に一揆起り、市村縫殿介討取年貢運

送の道を塞ぐ。寅5月山下豊前越中の一揆退治に向けれども、微勢なるに因て一揆の為に討死せらる。嫡子興七郎美濃に落けるが、後代尾張の君へ召仕ヘ子孫今に至る。勤仕すとなり。荒川右馬丞発向越中勢と戦破れ行方知れず」『荘川村史 下巻』27頁に「白川年代記益戸本」所収

 <氏理35歳>

 

尾神村の項「尾神備前守氏綱 内ヶ嶋家臣にて、二三代続しか未詳、天正年中の、備前

守氏綱は、主家内ヶ嶋上野介雅氏の女、(兵庫頭氏理妹)を妻とせり、天正13年乙酉7月、同僚牧戸城主、川尻備中守は、越前大野城主、金森法印の先導(ミチシルベ)して、責來りしき、氏綱兵卒を將て、岩瀬橋にて、手痛く防禦(フセギ)しに依て、金森勢一先(ヒトマズ)越前ヘ引返し、越中長谷ヘ廻り、本土吉城郡、二ツ屋口より責入ぬ、備前守氏綱は天正13年、大地震の時、帰雲(カヘリクモノ)城にて、主人内嶋兵庫頭氏理一(モロトモ)に、壓死たるにや、事蹟詳ならず」『斐太後風土記卷八、九 大野郡白川郷小鳥郷白川郷』(富田家文書)(毛筆書)高山市まちの博物館所蔵 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>

 

1585年 「天正13年8月2日、金森長近軍5000人が越前大野城を出発。

主力3000人長近軍は白山連峰の別山の峰越えをして上白川郷へ進み海上村、中野村

を攻めて尾神備前守氏綱軍と岩瀬橋で攻防戦となった。長近の養子可重(ありしげ)軍2000人は郡上の白鳥より北へ進み向牧戸城攻めをおこなった。長近軍は岩瀬橋から向牧戸城へ進むことができず引き返して郡上へまわり、可重軍と合流して野々俣から牧戸へ攻めた。飛騨の三木自綱(みつきよりつね)の軍が牧戸城守備に加わる。戦いは激しく長近の家来は夜になってから城に火をつけ混乱している城中の人たちを皆殺しにしたと伝えられている。向牧戸城8月10日落城。長近軍3000人は六厩川から吉城へ出て北の方から、可重軍2000人は三尾河から益田へ出て南の方から松倉城へ進んだ。」『郷土荘川』33頁

 <氏理42歳。>

 

「中にも尾上備前と申す者、大刀数度武功有之者に候。備中を見大に顔色替り、こぶし

をにぎりひざの上に置き、歯をくいしばり、目をいからし備中をにらみ」『飛騨鑑』

 <1585(天正13)年8月、岩瀬橋の戦いと鍋山城で尾上備前守氏綱の名がある。前記1536

(天文5)年尾上右京亮が10~20代と仮定すると、1585年に59~69歳ということになる。ところで、各項の背景から察するに尾上備前守氏綱は帰雲城の重臣であったとも考えられる> 


「越前より猿楽共呼寄、領分の者共も内ヶ嶋へ揃い、明日能興行之前夜九ツ過、内ヶ嶋

の前大川有之候、その向うに高山御座候、しかもまたその後に帰り雲と申す高山御座候(略)右の帰り雲の峰二ツ三割れ、前の高山ならびに大川打ち越して内ヶ嶋を打埋め申し候、人一人も残らず内ヶ嶋之家断絶」『飛騨鑑(かがみ)』

 

1586年「天正13年11月29日亥子剋より大地震初而12月25日まで昼夜動申

候、其時飛州白河帰雲の在所両山打崩、則屋形内嶋兵庫頭氏理其外500人余、牛馬等まで一時に亡申候。彼所にても小白河丸山ミゾウレ、帰雲其外江州左保山、長浜、尾州河内、越州北ノ庄鶴賀、日本国中在々所々及滅亡処多」『白鳥町史』76頁に長滝経聞坊文書二「年代記録(抄)」所収

 

内嶋氏理、天正13(1586)年没 43歳

 <1548~1586年まで内嶋氏理の代に、川尻備中守・山下大和守・尾上備前守氏綱を確認できる。氏理43歳、山下氏勝18歳>

 

 1586(天正14)年、「山下時慶(ときよし)没。白川郷荻町城主、山下大和守時慶天正13年の帰雲城の地震から助かった数少ない内嶋一族。金森家の追補を逃れて白川郷芦倉(あしくら)村に隠れたとされ、その山中で死去」

 

 

 内嶋氏の家臣で山下氏、川尻氏、尾上氏についての活躍時期の結果

 

 内嶋為氏より先代―――為氏より先代は、内ヶ嶋氏の家臣として牧戸村の川尻備中がい

る。萩町には山下豊前が住むが荻町城ではない。新渕村に弓大将荒川右馬丞、越中五ヶ山に市村縫殿介の名がある。

 

①内嶋為氏と雅氏時代―――1460~1500年まで内嶋為氏、雅氏の家臣で確認でき

たのは、川尻備中守氏信である。

 

②雅氏時代―――1500~1539年まで内嶋雅氏の代に、山下大和守時慶・川尻備中

守氏信・尾上備前守氏綱が確認できる。

 

③氏利時代―――1539~1547年まで内嶋氏利の代は、家臣の主だった記録なし。

 

④氏理時代―――1548~1586年まで内嶋氏理の代に、川尻備中守・山下大和守・

尾上備前守氏綱が確認できる。

 

 帰雲城主内嶋氏や、山下氏、川尻氏、尾上家の活躍時期について、系図や白川郷にあるお寺の過去帳から調査した資料等があると思って調べたが、見出すことは出来なかった。これら人物の素性の研究はこれからなのかもしれない。内嶋氏の活躍した年齢についても疑問が残る形となった。

 

内嶋為氏1420(応永27)年頃生まれる?~1500(明応9)年没

内嶋雅氏1443(嘉吉3)年以前に生まれる~1539(天文8)年没

内嶋氏利1503(文亀3)年以前に生まれる~ 1547(天文16)年没

 内嶋氏理1543(天文12)年生まれ~天正13(1585)年没 43歳

山下時慶 白川郷荻町城主、山下大和守時慶1586(天正14)年没

山下氏勝1568(永禄11)年生まれ 白川郷荻町城主、山下大和守氏勝

川尻備中守氏信→勘平→勘四郎。川尻備中守氏信は代々備中を名のる故、生没不詳。

 

文献には、帰雲城主内嶋為氏→雅氏→氏理の3代として記してある。現在は、内嶋為氏

→雅氏→氏利→氏理の4代が通説で、錯誤している部分を3~4代に直してある。

                              2012 H24 12 20

 

飛騨鑑から帰雲城主内嶋氏の記述について

帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書

 
『飛騨鑑(ひだかがみ)』に帰雲城主、内嶋(うちがしま)氏の項が書いてあるが、古文
書のくずし字体であり、読むことが難しい。なので、『飛騨史壇』第4巻3月6~10頁
に「飛騨鑑」が部分的に所収してあったのでこれと、飛騨鑑写本とを読み解き内嶋氏の
項を記します。
 
 『飛騨鑑』
 「古老曰(いわく)、飛騨國之内白川郷内ヶ嶋と申所之領主内ヶ嶋兵庫と申候。白川郷
不残越中赤尾筋へ懸て領主也。天正十年越後長尾景勝、上杉と號、越中へ乱入之砌、越
中之國侍椎名(しいな)内ヶ嶋と依爲(な)縁者、爲(な)加勢越中へ出陣留守之節、家老川
尻備中と申者致別心。金森五郎八忠節仕候に付而、越前大野城主金森五郎八、人數野々
俣境より討入、右備中案内仕、白川筋より下、山中へ廻り。
 
右内ヶ嶋兵庫於越中、金森乱入之注進を聞屈、早々帰陣申候得共、最早一國弓矢相済、
國中悉金森へ随申に付而、無是非家老七、八人其外侍分、彼是八拾人余召連、高山へ罷
(まかり)出金森へ降参被申入候。
 
金森出雲守ハ、其時ハ長屋喜蔵と申候、生害させ可 申と達而被申候得共、五郎八は侍が
侍を賴降参申を無故討果候事ハ非本意候間、和睦申本領遣し候者其恩をハ兵庫も被忘間
敷候。然者隨一之味方にて可有之候間、和睦可申と相談相極、翌日兵庫登城則對面、饗
(もてなし)應(こたえ)過候而五郎八被申候ハ自今以後如在間敷候。御領分前々之通り無
相違遣置候。定而在所之者共氣遣可仕候間、早々御帰最之由念頃成樣子にて其日は旅宿
へ帰宅。翌朝使者を以皆者御帰、對面申候、直ニ申談候通、勝手次第早々御帰、家来共
安堵させ、尤(ゆう)ニ候存候。
 
次ニ川尻備中事御譜代隨一之者故、留守城を預置候処不義不忠仕合御立腹察申候、然共
此者我等家へは忠節仕候者ニ候間、對我等罪御赦免、御對面候者大慶可申由、兵庫使者
へ皆ハ種々御懇志之樣子、生々世々難忘存候、此度は二度在所に罷(まかり)帰候事不定
に極処、本領迄被下置御厚恩之段、子孫七代迄も難忘、對御家毛頭非義不存候、次備中
事如何様共被仰付次第ニ差免對面可申由に付、則次之間迄備中を呼寄、今度之不義不忠
御赦免被成候間難有可奉存旨、使者披露申候、其時兵庫備中を一目見、少々怒候顔色に
而涙をたらたらと御流候、其時兵庫側ニ居申候家老分之者七八人顔色替而、備中をつか
みさき可申體(からだ)ニ相見へ候。中にも尾上備前と申者、大刀數度武功有之者ニ候、
備中を見大ニ顔色替り、こぶしをにぎりひざの上ニ置、はをくひしばり、目をいからし
備中をにらみ、余りつよく齒を喰しばり候に付、兩方之口の脇より血流出申體(からだ)、
鬼神之様ニ相見へ申候、其體(からだ)を使者見申早々備中を召連罷(まかり)出候。
 
兵庫も即刻在所へ帰宿領分之者共出合悅申事難盡(つき)申候兵庫も不慮に二度面々へ逢
候事大慶(よろこ?)不過之候然者祝儀ニ能申付面々へ見物爲(な)致此中之苦勞拂させ可
申由ニ而、越前より猿楽共呼寄領分之者ども茂内ヶ嶋へ揃、明日能興行之前夜九ツ過、
内ヶ嶋之前大川有之候、其向に高山御座候、而亦其後ニ帰り雲と申高山御座候、余り高
山故堂々雲山ニ当り、跡江帰り申候ニ付而帰り雲申候。右之帰り雲之峯二ツ三われ、前
之高山竝(ならびに)大川打越、内ヶ嶋打埋申候、人一人茂不残内ヶ嶋之家断絶、家老之
内山下大和同修理兩人は内ヶ嶋より三里下鳩谷と申所在所故罷(まかり)越、能興行之朝
未明ニ出仕仕申首尾ニて右之難ニのかれ申候。」
 
『飛騨鑑』芳州(ほうしゅう)著(岐阜県立図書館所蔵の写本 G/261/ヒ/A)寛永
(かんえい)9(1632)年~慶安(けいあん)3(1650)年頃の執筆と思われる。
 
                                 2012 H24 12 17

白川郷の七人塚八人塚千人塚跡と古戦場跡と寺跡とその位置について

白川郷の七人塚八人塚千人塚跡と古戦場跡と寺跡とその位置について(インターネット用)

 帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書

 

 帰雲城の調査をするなかで、白川郷(現在、白川村、高山市荘川町)の保木脇~牧戸間にある塚跡と古戦場跡と寺跡の伝承とその位置について調べてみた。

 

岐阜県大野郡白川村御母衣字上ヶ洞の八人塚

「上ヶ洞の八人塚 平家の落人たちは、遠く人里はなれた山奥を選んで、仮小屋を作りかくれ

住んでいました。はじめのうちは木の根・草の実で生計をたてていましたが、次第に開墾地を広め、数年足らずで百姓仕事がすっかり身につくようになりました。さて、源氏方では平家の人さがしに懸命で、どんな山奥へも家来を回して探策にきます。ここは白川郷の山奥で、御母衣の上ヶ洞というところです。仮小屋を建て百姓になりきっている平家の落人の通称、太郎兵衛一家と、与惣衛門一家と、平兵衛一家の3家で、それぞれ平和に暮らしを営んでいました。

ある日のこと、この山奥の仮小屋に、一人の小間物屋がやってきました。これは小間物売りに

見せかけた源氏の探策方なのです。最初に、太郎兵衛の家に入ってきて、しばらく小屋の中を迂散くさそうにみまわしていましたが、「荷物を少しの間置かして下さい。私はこの先に忘れ物をしたので、取りに行ってきますから・・・」といってでていきました。太郎兵衛の奥さんは、さすがに、侍の奥さんだけあって、源氏の探策方とみぬきました。きっと仲間を連れに行ったに違いない。今に多くの武士が押しかけてきて私たちを殺すに違いない。そこで奥さんは、毒薬をせんじて待ちかまえていました。やがて、8人の武士がどやどやと太郎兵衛の家に入りこんできました。太郎兵衛の奥さんは、慌てずゆっくりと、「まあ、お茶でも一杯飲んで下さい」と用意の毒薬を進めました。8人の武士たちは、この奥さんの落着いた様子に疑いを抱かず、お茶を飲んでしまいました。薬がきいて、武士たちは一人、やがて一人と、8人全部が横になって眠ってしまいました。そこへ、与惣衛門、平兵衛一家がびっくりして集まってきました。

一部始終を聞いて、太郎兵衛の奥さんの機転にみな感謝しました。8人の武士はいくら時間が

たっても目がさめず、翌朝、8人とも冷たくなって死んでいました。太郎兵衛たちは早速、大きな穴を掘って8人をそこにうめました。そしてその上に、大きな岩をおいて塚のようにしました。

爾来幾星霜を経た今日、「8人塚」といって大きな岩が残っています。」『白川郷の伝説と民話』 102 西野著 昭和474月発行

 

 <現在、御母衣字上ヶ洞のO家跡から奥に約200m以内に八人塚があると思われる。上ヶ洞の八人塚の位置について、『新編白川村史下巻』134,464頁に八人塚、神社、地蔵の位置が記してある。上ヶ洞(上洞)に数年前までおばあさんが一人住んでいたが現在は誰も住んでいないと聞いた。「牧、K氏談: 御母衣上洞(あげほら)にOさんが住んでいた。上洞のOさんの正宗(まさむね)の刀2振りを鑑定士が来て、借りて行ってすり替えられた。御母衣の八人塚は上洞の家の近くで、神社と八人塚があり、この塚の石は正しく並んでいた、云われは知らない。木谷地区の神社裏だろうに塚があった。2011H230630聞取り調査より」>

 

 白川村長瀬字秋町の七人塚跡

「七人塚 食するに鳥獣の肉を以てし、着るに毛皮を纒(まと)ひ、野獣にも近い原始生活を

してゐた民も追々と我等の先祖の壓迫(あつぱく)を受くる様になつて、彼等にとつては實(じつ)に平和な仙境も餘程變(かわ)つて來た。そして彼等アイヌ人の部落を襲つた吾々の先祖によつて、或は此村から追出され或は征服されてしまつた。現に本村長瀬區(く)小字秋町の田畑になつてゐる村の中央の地に昔から七人塚といひ小高く土を盛り其上に石もて墓やうのものを作つてある 之れアイヌ人七人を一緒に葬り、代々言ひ傳へて七人塚と稱(とな)へる様になつた。」

 

『飛騨の大白川郷』117 昭和98月発行

 <秋町集落から南南東約300mの田畑の場所に七人塚があったようである。御母衣ダム水没前の秋町には、下屋家・秋良家・上屋家・田中家の4戸があった。秋町にあった白山神社の位置については、明治43(1910)1/5万地図白山に記してある>

 

岐阜県高山市荘川町岩瀬の八人塚・千人塚跡

「八人塚・千人塚 岩瀬地区の集落のはずれ、東南の一角に、通称八人塚千人塚と呼んだ地域

があった。戦国の世に、領地争いのため幾度かこの地で一戦を交え、尊い人命を失った武士たちの遺骸を葬った場所を、人々はこうした呼び名をつけてその霊を慰めてやった。しかし、その後、心ない人たちがこの塚に目をつけ、遺品の発掘をこころみ、幾度か掘り返されているうちに塚跡もだんだんと影を潜め、地名だけがずっと残されていた。」『辛夷(こぶし)ふるさと回想 水没前の荘川村』43

 

 荘川町岩瀬の八人塚・千人塚跡

「岩瀬地区内には、戦国の武将が命を落とした亡骸を埋めたとされる八人塚・千人塚が日照へ

行く山道の傍らにあった。」『往昔』43 田下昭夫著

 <岩瀬地区の八人塚・千人塚のおおよその場所については、現在の岩瀬白山神社から北北西約400m辺りではないかと推測される。八人塚・千人塚跡の位置について、聞取りを実施したが塚の存在を知らないということだった。岩瀬の金生神社の位置について         <明治43(1910)1/5万地図白山に記してある>

 

 荘川町岩瀬のブラ橋南、古戦場跡

ブラ橋南「古戦場跡 牧戸城主と帰雲城主が互いに領地争いをした。その一戦を交えた古戦場

跡がブラ橋くにある。もちろんこの辺りは長年月の間に地形がすっかり変わって跡らしいのは目につかない。中でも活躍した武将のひとりに、牧戸城の家臣、荒川右馬丞という弓取りの名人がいたそうだ。現在の荒川家はその末裔にあたる。」『辛夷ふるさと回想 水没前の荘川村』47 53年集録完成

 

 荘川町岩瀬字下滝のブラ橋南、古戦場跡

 下滝ブラ橋近く「「なんかこの先に、古戦場があるって聞いたけど」、「あそこのうブラ橋の近くやけどすっかり荒れての、この下滝は室町時代は戦場の要だったようで、牧戸城主と白川の帰雲城主は、越前城主の金森長近との領地争いは壮絶だったようで、多くの武将に死傷者が出たが、なかなか落ちぬ城に長近は夜ひそかに牧戸城に火をつけ、9日目にようやく落城したとのことじゃ」、「そうですか、色々教えて下さいまして有り難うございました」、礼を言って改めてこの地域を見渡し、やがて廃道となる道をブラ橋に向かう。ブラ橋近くは樹木が生い茂って道路を覆いつくし、真昼とは思えぬ程に薄暗くひとりで歩くのは気味悪い。古戦場の形跡は見当たらず木々と雑草だけが山一面を埋めつくして庄川と野々俣川に挟まれた牧戸城へと続いている。」『よみがえる湖底の里7・7』71

 

<現在の荘川町岩瀬地区の国道156号線の舟橋谷橋から南西約200mの庄川という川にブ

ラ橋が架かっていました。ブラ橋西の南辺りが古戦場跡です。>

 

 

 

 

 荘川町牛丸のそふ谷吊橋東から北にある古戦場跡

そふ谷吊橋東から、庄川沿いを北へ約100mの位置に、「W氏の母談:ここが古戦場だったと

聞いています。この場所に赤い花が咲く。2012H240718聞取り調査より」

 

 荘川町岩瀬の旧光輪寺跡

「水谷(上?)川東北の林に周囲より一段高く土盛りした箇所があった。この付近に三田洞と

称する場所があって中野村光輪寺初代開祖=(浄法)の跡が残されていた。」

『往昔』43 田下昭夫著

 

岩瀬の旧光輪寺跡

「岩瀬光輪寺跡 中野村にあった光輪寺の開祖は、この岩瀬地区の東側の山中、三田洞と呼ば

れる洞の中田と呼んだ場所に、堂を建立して布教につとめたようである。草木をふみ分けて、その寺跡を探ると、土中に埋没しているが、石垣用に使った岩石を、点々と見つけることができた。」

『辛夷(こぶし)ふるさと回想 水没前の荘川村』44

 <荘川町岩瀬地区にあった旧光輪寺跡は、おおよそとして、現在の岩瀬白山神社から北に約650m一帯か、岩瀬白山神社から北北東約700m一帯に岩瀬旧光輪寺跡があったのではないかと思います。荘川町岩瀬地区にあった旧光輪寺跡は、水上谷と矢箆原家から比較的近い場所にあったようです。三田洞は呼称であり小字名、孫字名でないため地図上からは位置を特定できません。この岩瀬光輪寺があった時代には、岩瀬道場であったようです。のちに中野村に移転して光輪寺となります>

 

                                2012 H24 12 09 

 

牧戸と荻町にあった城砦館についての記述

帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書
 
 現在、牧戸地区には「向牧戸城址」と「仮称牧戸砦跡」(報告書等に牧戸付城、仮称牧戸城と
あるが、ここでは<仮称牧戸砦跡>とする)が確認されている。荻町地区には「荻町城址」があ
る。
 
 のちに帰雲城の城主になる内ヶ嶋為氏は、白川郷に1460年頃、寛正年間に入国したとされ
る。1460年より以前に牧戸地区や荻町地区に城砦館等があったのか。同地区内に城砦館等は
何ヶ所あったのだろうか。また、牧戸から荻町の城館等の推移はどうであったろうか。
 
 牧戸地区と荻町地区にあった城砦館等の記述と、内ヶ嶋為氏の祖、代についてと、聞きなれな
い白川郷内の城郭名や、書物による記述の違いを並べてみた。(原文の誤字は、あえて修正せず)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1355年 「文和4年 白川内ヶ嶋左衛門経喬(ツネタカ)国司頼鑑(ヨリカネ)ヨリ白川ヲ賜ル 
             嫡子新蔵人経匤(ツネマサ)越中砥波三千石ヲ討取 荻町に城ヲ構ヘ居住ス」『荘川
             村史 下巻』21頁に「白川年代記 益戸本」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1374年 「応安7年 白川内ヶ嶋経喬(ツネタカ)死ス 其嫡子新蔵人経匤(ツネマサ)其子弾正
             忠経薫(ツネシケ)越中砥波射水ノ内一万石ヲ討取 同郷牧戸ノ城ニ移住ス」『荘川村
             史 下巻』21頁に「白川年代記 益戸本」所収
1374年 「応安7年 内ヶ島経匤(ツネマサ)嫡弾正忠経薫(ツネシケ)越中壱万石ヲ討随へ牧戸
             ニ居城ス 三代目牧戸ヨリ萩町ニ移住ス」『荘川村史 下巻』61頁に「白川年代記 三
             島本」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1411年 「応永18年 白川内ヶ嶋弾正経薫(ツネシケ)此勢ニ乗シ越中砥波射水ヲ押領シ二万
             石余ノ分限トナル 家臣川尻備中守千石牧戸ノ城辺ニ砦ヲ構ヘ住 山下豊前守千石荻町
             ノ故地ニ屯ス弓大将荒川右馬丞新渕山ニ住居ス 市村縫殿介越中砥波ニ住テイツレモ
             五百石ヲ知行ス 内ヶ嶋ノ繁昌頗隆ンナリトイヘトモ佐々木京極家ニ随逐シテ家臣ノ
             如シ」『荘川村史 下巻』23頁に「白川年代記 益戸本」所収
1411年 「応永18年 白川内カ島弾正忠経薫(ツネシケ)ハ此勢ヒニ乗シ越中ニ手ヲ懸テ二万
             石余ノ分限トナル 其家臣川尻備中牧戸ニ住シ 山下豊前萩町ニ屯ス 千石宛両家知行
             弓大将荒川右馬丞新渕ニ住シ 市村縫殿介ハ越中五カ山ニ在テ何レモ五百石ヲ知行ス
             弾正忠ハ父新蔵人トトモニ牧戸山ニ砦ヲ構ヘ 楯籠ケレトモ佐々木家ニ随従シテ家臣
             ノ如在ケル」『荘川村史 下巻』63頁に「白川年代記 三島本」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1449年 「宝徳元年 白川牧戸城主内ヶ嶋経薫ノ子大監物氏経(ウジツネ)其子太夫将監為氏代
       々相続ス」『荘川村史 下巻』23頁に「白川年代記 益戸本」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「歸雲山古城 御花園天皇御代、信濃國松住人、楠氏の末葉なる内島将監橘(たちばな)為氏、足利
義政將軍の命を奉じて白川に来り、其威勢を振ひ、村々を兼領し、寛正の初、牧戸に城を築き住居、
漸々村の随従に依て、後亦、保木脇村歸雲山に城を築て勢強く、小鳥郷はさら也、越中國砺波郡川
上郷をも押領せり。家臣には、山下・尾神・川尻等の勇士有て破竹の勢ひに成り、後土御門天皇御
代、文明七乙末年八月、子息内島上野介雅氏と諸共に討て出て、飯島村正蓮寺九代明教をうち亡し、
其の兄三島将監教信は遂電せしが、是亦後に討取ぬとぞ。其後息上野介雅氏家を續たりしが、同 郷
代長享ニ戌申年、本願寺蓮如の扱にて、内島と照蓮寺明心と和熟し、雅氏の女を配偶、明心を婿と
しけり。その後雅氏の嫡男、兵庫頭氏理家を継ぐ。」『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷 保木脇
村』296頁
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1460年 「寛正元年庚辰年、内ヶ嶋上野介橘爲氏、自信州松代、來白川郷、築牧戸城居之[三
       郡沿革]」『飛騨国大野郡史 上巻』187頁に「三郡沿革」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1464年 「寛正5年甲申年、内ヶ嶋爲氏、築保木脇歸雲城移住、與(あたえ)牧戸城於家老川尻
       備中某居之[三郡沿革]」『飛騨国大野郡史 上巻』187頁に「三郡沿革」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1573年 「天正元年 白川牧戸ノ城主内ヶ嶋上野介雅氏二月ノ末ニ卒去セラレ 嫡子兵庫頭
             氏理ノ世トナリ 牧戸ハ要害浅間ナレバ下白川保木脇ノ上帰雲山ヘ城ヲ移サント思
             立テ当天正ノ始ヨリ領分ニ臨時ノ課役ヲ懸 城ノ普請ヲ専トス 一族老臣ノ諫モ用ス
             根憤ル族数限リナカリケレバ親戚家人数多離散ス 所謂内ヶ嶋淡路守祀薫(とししげ)
             柱川修理亮経猷(ツネノリ) 同新左衛門雅照(マサテル) 月ケ瀬帯刀(タテワキ)雅等
             妻子ヲ携ヘ内ヶ嶋ヲ退去ス 舎弟新十郎入道応円ハ郡上長滝経聞坊ノ養嗣トナル 家
             臣三嶋正総(マサフサ)其子太郎左エ門正厳(マサナリ)ハ土民トナリテ禄ヲ固辞ス 
             故石(フルイシ)左近丞雅殿(マサシケ)モ同郷三谷ニ移リ農民トナル」『荘川村史 
             下巻』26頁に「白川年代記 益戸本」所収 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1574年 「去天正2甲戌、牧戸ノ城ヲ帰雲ニ移ス」『荘川村史 下巻』27頁に「白川年代記 
             益戸本」 所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1577年 「天正5年 中野照蓮寺善了大阪石山加勢ニ発向ス 郷中武勇ノ人ヲ選御供三嶋
       正厳(マサナリ)其子正隆(マサタカ) 故石(フルイシ)雅殿(マサシゲ) 保木脇宗
         左エ門八十余人大阪在陣三年 去天正二甲戌牧戸ノ城ヲ帰雲ニ移ス 同五丁丑近
             江国姉川陣アリ兵庫頭発向出馬アリ 兵庫頭発向出馬アリ 大敵ト戦ヒ兵庫頭討
             死セラル 嫡子太郎氏刻一族高井大蔵雅登(マサノリ)田中金吾雅継(マサツグ) 
       長瀬新兵衛悉戦場ニ屍(カバネ)ヲ晒(サラ)ス 郎従残寡(スクナ)ニナル」『荘川
             村史 下巻』27頁に「白川年代記 益戸本」所収   
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1585年 「天正13年 8月 法印公先白川之城を、忍の者を似て八月十日の夜、丑の刻に
       火をかけ城中の男女一時に焼死す。于今丑の刻には、時を揚げて男女哭する声聞ゆ。
       城主内ヶ嶋兵庫頭氏理も、あへなくぞ亡びけり」『神岡町史 特集編』166頁に「五 
        飛域太平記(全)」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1587年「天正15年 11月29日 天地震動裂ルカ如ク、水沢上村、帰雲ノ城山一時ニ崩懸
      リ突 埋ム 西洞ノ釜カ洞、赤崩同時ニ山脱シテ跡形ナシ 此時帰雲ノ城地内ヶ嶋6代
           の蹤跡一時ニ断絶シ、年数氏祖経喬ヨリ283年ニシテ亡ブ」『荘川村史 下巻』28
           頁に「白川年代記益戸本」所収
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「白川城主 内ヶ島兵庫頭氏理、氏理家老 川尻備中守氏信」『神岡町史特集編』155頁に「五 飛
域太平記(全)」所収
「牧戸村、夫より牛丸、此間に内ヶ嶋の古城趾あり、内ヶ嶋は西園寺大納言の末、建武の頃白
川へ遠流、小鳥白川越中砺波射水の内を領し、天正のはじめ兵庫頭氏理代に帰雲へ移る」『荘川村
史 下巻』217頁に「白川奇談」所収
「牧戸村夫より牛丸此間に内かしまの古城跡あり、内か嶋は、西園寺大納言の末、建武の頃白
川へ遠流、小鳥、白川、越中砺波、射水の内を領し凡二萬石の大名なり、五六代此所に住し、天
正のはじめ兵庫頭氏理代に歸雲へ移る[白川奇談]」『飛騨国大野郡史 上巻』288頁に「白川奇談」
所収
「牧戸村夫より牛丸此間に内ヶ嶋の古城跡あり 内ヶ嶋は西園寺大納言の末 建武の頃白川へ遠
流小鳥白川 越中 砺波射水の内を領し凡二万石の大名なり 五六代此所に住し 天正のはじめ兵庫
頭氏理代に帰り雲へ移る」『白川奇談』(古文書)(岐阜県立図書館所蔵)
「尾神より二三丁野間見村 帰り雲山水つき込ける時 川水此所まで湛(たたへ)たりと云傳ふ ぬま
へけるゆゑぬまみといふ事なりとそ 野間見とは申侍る 夫より福島むらを過ぎて福島歩岐万仭の
高崩へ橋を渡し登り下る白川随一の難所にて 内ヶ嶋家帰り雲の城郭の要害也 歩岐を過ると牧村
也 此川向に秋町長瀬村有」『白川奇談』(古文書)(岐阜県立図書館所蔵)
「中世附近には相當の武士も住んでゐたらしく、岩井の無名城は土豪の據(きょ)つた處(ところ)
といひ、内ヶ島家の臣川尻氏は領地を岩井に持ち、川尻備中守のそれと傅へる號(よびな)光明院
殿の墓があり」『飛騨史の研究』
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
参考文献
1737年  元文2年  『飛域太平記(全)』後藤利都著 脱稿
1831年  天保2年  『白川年代記』三島勘左衛門正英著 益戸本
1848年  嘉永元年  『飛騨太平記』上巻 著者不明
1850年  嘉永3年  『白川奇談』森達蔵 白川奇談とあれど書き出しには白川巡行とあ
り此書は白川一色村三島勘左衛門殿所蔵也 二木氏に有之為置 也(飛騨史壇)1830~184
3年 天保年間 三島勘左衛門正英著 
1873年  明治6年  『斐太後風土記』富田礼彦著
1919年  大正8年  『飛騨史壇』大島利三郎著
1925年  大正14年 『飛騨国大野郡史』発行 昭和45年復刻発行
                                    2012 H24 06 24

白川郷へ資料調べに向かう(照蓮寺跡に立つ)

 

2012 H24 04 09(月)、白川郷へ資料調べに向かった。AM7:20御母衣ダム、岩瀬橋にさ
しかかるとダム湖水面が例年より一段と低いのが見てとれたので、ふともしかしたら照蓮
寺跡を拝めるかもしれないと思い、急きょ湖岸を歩くことを決めて荘川桜のある駐車場か
ら、さらに北にある駐車場に車を止めた。7:43、長靴の用意もなく残雪が残る中駐車
場から湖岸に向かうと、いきなり、おやーレールが湖底に向かって延びているぞー。レー
ル幅は約1.6~1.7mだ。鉄道用レール?・木材運搬用軌道?、何のレールだろうか。理解
できなかった。何より10何年御母衣ダム湖岸道路を走っていたが、今までレールの存在
すら見たことがなく気がつかなかった。
 スニーカーは泥だらけになり、湖岸水面間近まできて北方を見て水面下にある「日崎城
跡」を推測した。ここから東を見て南北朝時代のものと思われる「山城跡」の尾根を眺め
た。
 湖岸には「旧白川街道」と思われる道筋が薄すらと残っており、街道脇を南へ歩いた。
 果たして照蓮寺跡は現れているのだろうか。準備をせず、旧地図を持たずさ迷っている
ので位置が判らない。

あと少しだけ南へ進むことにしよう。
 右前方に、ふと大きな石が目に付いた。これだ!。さらに近づくと大きな石は約1.8m
ほどの高さであることが分かった。さらに2ヶ所の物証跡を確認して、ここが「中野(
村)御坊照蓮寺跡」であることを確信した。
 何よりもまずは手を合わせて「拝んだ」。「:帰雲城内ヶ嶋様、嘉念坊兼入(けんにゅ
う、のちの明心)、明心(みょうしん)さま、ははあー」と拝んでから、仏敵である「:
帰雲城内ヶ嶋様」と拝んだのはまずかったと思ったが、いまさら遅い。

 <飯島(村)正蓮寺は、1475年 文明7年(1488年説もあり)、帰雲城の城主、
内ヶ嶋氏と飯島正蓮寺の戦いがあり、正蓮寺が敗れ廃絶したという。
 その後、本願寺の蓮如・実如らの仲介により内ヶ嶋氏と明心(みょうしん)が和睦して、
中野村に(正蓮寺の正の字を照に改め)照蓮寺が再建された。1501年(1504年と
もあり)から1588年までの80年余り「中野御坊照蓮寺(心行坊)」が飛騨の真宗メ
ッカとなったのである>

 7~8年前から御母衣ダム渇水時の春に照蓮寺跡に立つことが、念願であったので、資
料調べに向かう途中、思わぬ偶然に照蓮寺跡に立てたことはすごくうれしく興奮した。
 以前の「古老への聞取り調査」で聞いていた、照蓮寺跡東にあった、白川街道はここか
ら「くの字に」曲がっているのを確認できた。聞き取りと現場が確証になったことはうれ
しい限りである。なによりも御母衣ダムが完成する前の昭和30年ごろの地形に立った喜
びと感動は「ロマンをくすぐる」。
 資料や旧地図を持たずにこの地に立っているが、覚えている限り地表を見ておこうと思
い、北へ歩き、照蓮寺跡の北にあった伝承にもある「牛の池」跡を探したが、湖岸地表は
侵食していて、確認できなかった。さらに北に歩き旧白川街道左に石の階段があるのを確
認した。(後日資料を調べたら、中野村一之宮神社跡の階段と思われる)

 さらに北へ進み、海上村と思われる場所を歩き、駐車場へ戻った。9:00

 9:40、白川村で全資料等を調べた。先月より嘉念坊善俊(ぜんしゅん)の記録を調
べ始めたので、善俊の記述がある資料を読み込んだ。3:00

 あと書き:今回、資料調べに向かう途中で、思いもせず照蓮寺跡に立つことができた。
帰雲城のみを調べてばかりおらず、嘉念坊善俊から、正蓮寺、照蓮寺の記録を調べ「史
実を明らかになさい」とお願いされたような気がした。

 メモ書き:小笠原勢に、犬甘(いぬかい・旧市)と平瀬(島内)がいた。牛丸。内ヶ戸
(内ヶ嶋の住し場所か?)。照蓮寺の堀について
 
 後日談:御母衣ダム湖底に向かって延びていたレールは、ダム湖へ船を上げ下ろしする
ためのレールだと分かった。
資料を読み込むと、1475年 文明7年(1488年説もあり)飯島正蓮寺と内ヶ嶋
氏との戦いは単に宗教勢力と内ヶ嶋氏の争いではなく、地元豪族(人物名調査中)や、こ
の頃急浮上してきた飯島正蓮寺の真意性を調査研究してひも解く必要性があるとわかった。
レポート提出日: 2012 H24 04 28 

 

御母衣ダムの湖底に現れた照蓮寺跡
御母衣ダムの湖底に現れた照蓮寺跡
船用のレールがあり右岸も見える
船用のレールがあり右岸も見える