赤影のレポート

庄川右岸に帰雲城跡 (2013.12.12 発表)

 

写真の左上辺りに「内ヶ嶌為氏」と書かれた■の

場所があります。

 

この絵図は先日、高山のまちの博物館の特別展示の

展示物の一つにあったものです。

 

この■の場所というのはあの帰雲山の大崩落面の真下

よりもやや北側ではないかと想像していますが

この場所に帰雲城があったとする絵図というのは

実に面白いのです。

 

庄川左岸にも帰雲城跡があって、それを記した絵図も

実際存在しており、両岸に帰雲城が見られることが

分かりました。

 

 

この絵図は1856年秋に二木氏という人物が作成した

絵図ということが分かっていますが、この二木氏とは

一体誰なのか?

 

まちの博物館に調査を依頼した所によれば、、、

二木という苗字で思い浮かぶのは高山の上二之町

にある、、、

 

二木酒造

 

有名な造り酒屋さんですが、ひょっとしたらここ?

と思っていたら、ビンゴでした。

二木酒造さんのご先祖様でした。

 

造り酒屋の主、あるいはその関係者がなぜ地図を

作ることになったのか?

これは直接、二木酒造さんに伺ってみたいと思います。

その理由がわかるような史料や言い伝えが残って

いればいいのですが。。。

 

また、1856年という年は微妙な年でして、その前年

1855年2月に白川郷を襲った大地震があって

果たして作成は1856年ですが実際に現地を歩いた?

とすれば、地震の前なのか後なのか?

この地震で帰雲山が再び崩落した可能性が大で

地震の前に歩いたのか、地震後に歩いたのか?

でも、様子は違っていた可能性もあります。

 

この絵図の面白いところは、、、

■は古城跡、を記しています。

なので写真の■が帰雲城であることは分かるんですが

 

初代の城主「内ヶ嶌為氏」

 

帰雲城にかぎらず、すべての古城址はすべて

城主の名前で描かれています。

また、内ヶ嶌の「嶌」も独特な嶌という字で

江戸末期に使われていた嶌だそうです。

 

では、この二木氏なる人物が歴史に詳しかったのか?

という問題ですが、これが少々怪しいのです。

実は、内ヶ嶋氏と言えば帰雲城もそうですが最初の

本拠地、「牧戸城」があります。

この牧戸城も絵図に載っているのですが・・・・・

 

あー勘違い、、、なんです。

 

 

 

やはり写真真ん中辺りに■があります。

そして、ある山の上に、、、

 

川尻備中守

 

と書かれています。

川尻備中守と言えば、牧戸城主です。

これのどこが勘違いなのかというと、、、、

牧戸は牧戸でも白川郷の牧戸ではなく、この牧戸は

現在の飛騨市宮川村の牧戸で牧戸違いなのです。

 

想像するに二木氏は牧戸城が牧戸という名前の場所に

あった事は知っていたものの、牧戸という名前だけで

その場所については詳しい知識がなかった・・・

と、考えられなくもない。

 

しかしながら、他にも古城跡の■はたくさんありますが

間違っているのは、この牧戸だけです。

他はほぼ正確な位置で記されている所をみると

なぜ牧戸だけ勘違いしたのか?

 

肝心の帰雲城もなぜ、右岸に書き入れたのか?

 

現地を歩いて聞き込みの中からそういう情報を得たのか?

公然の秘密として知っていたのか?

その当時、早くも参考文献があってその文献を

見て書き込んだのか?

コレばっかりは分かりません。

 

ただ、この場所に書き入れたということは何かしらの

根拠はあったのではないか?

 

現時点では庄川左岸の保木脇地区のどこか、、、

という説が有力ではありますが、白山が見える所

だったり、金山が近いという事実だったり、照蓮寺からも

そんなに遠くない右岸の場所の方が何かと都合がよく

いろんな文献から推理してもつじつまが合ってくるんです。

 

ただ、右岸の厳しいところというのは、、、、

後世の史料のほとんどが「保木脇の城郭」とか

「保木脇の城」などと書かれており、その結果

帰雲城は左岸にあったのでは?

というのが定説になっています。

 

しかも現在の地形や道路状況を見てしまうと右岸という

説は考えにくく、左岸になってしまうわけです。

 

しかしながら、多くの保有していたとされる金山にも

近く、崇拝していたかもしれない白山の見える場所、

などを考えあわせた場合、右岸に帰雲城があったと

しても不思議ではありません。

 

これはジックリと時間をかけて調査検証をしていきたい

と考えています。

 

 

 

 

 

 


帰雲城は城か館かそれとも屋形?(2013.8.25発表)

 

帰雲城は一般的にも通称「帰雲城」とされていますが

古い文献、天正地震以前には帰雲城という表現は一切

無いと思われます。

 

公家の日記の中に「帰雲の屋形」などという表現こそあれ

一般的な戦国大名の居城、、、いわゆる城とは異なる

感じが見えてきます。

 

今回は、帰雲城と今では広く呼ばれているこの城が

果たして城だったのか? それとも屋形(館)だったのか?

戦闘能力のある城であったのかどうか?などを

考えてみたいと思います。

 

 

 

画像にあるように帰雲城は北に荻町城、南に牧戸城を

配置しつつ、画像にはありませんが、いくつかの城(砦)

が配置されていたようです。

 

現在、帰雲城に向かう道としては飛騨高山から白川村に

向かう国道158号線〜156号線、砺波から五箇山経由で

白川郷に入る国道156号線、そして荻町展望台付近から

天生峠を超えて飛騨古川に出る国道360号線、、、

あとは越前方面から白鳥町を北上し牧戸に出る国道156号線

がありますが、実は今ではほぼ廃道になっている道が

他に少なくとも二本、確認することができます。

 

それが、画像中央付近に東と西から御母衣湖に出てくる道・・・

実際、金森長近が飛騨に侵攻した折、使った道だとも

言われています。

 

 

陸の孤島、、、天然の要塞と言われた白川郷ですが

内ヶ嶋氏時代、二度、帰雲城を襲われています。

一度目は上杉謙信の軍勢に襲われており、代行で

塩屋筑前守秋貞が登場します。

 

二度目は金森長近の飛騨攻めです。

実はこの時、金森長近は襟前大野を出発し石徹白から尾上郷

に出て白川郷に入ったという説があります。

そして内ヶ嶋氏を降参させた後、今度は三木氏を成敗するため

尾上郷の対岸、秋町から森茂を経由して古川に出たという

そんな説もあります。

 

定説では金森軍は越前から白鳥経由で牧戸城を落としてから

帰雲城へ向かったとされていますし、内ヶ嶋氏降参後には

荻町から天生峠を越えて古川に出たのではないか、、、

となっています。

 

 

しかしながら、前出の上杉軍も金森軍もどちらの軍勢も

帰雲城に入った、火をつけた、代官を入れた・・・

そういう形跡がありません。

というより、素通り?無視?というような、まったく

問題にしていないような感じさえします。

これは一体、どういうことでしょうか?

 

もっとも、この二度の敗北時、城主である内ヶ嶋氏は遠征中で

帰雲城を留守にしていたと言う事実がありますが、留守なら

留守で他にやりようがあったでしょうに?

 

 

逆に内ヶ嶋氏側から見た場合、、、

向牧戸城と荻町城さえしっかり、守りきれば

その他のところからに侵入は無いだろう、と

考えていたかもしれません。

 

もっとも尾上郷の出口付近には日崎城なる、砦が

あったのではないか?

と言われていますが、後にも先にもこの二箇所から

現れ、去っていったのは金森長近軍のみでした。

 

したがって、、、

・荻町、向牧戸の両城がしっかりしていること

・白川郷そのものが天然の要塞であること

・幹線道路以外から攻められたことがない

・上杉・金森という大名ですら素通りした

・いざとなれば、四方、どこにでも逃亡が可能

 

以上の理由から、、、

帰雲城って城である必要がないと思われます。

屋形と呼ばれていたことからも屋形(館)が

比較的低地に存在していたのではないか?

「屋形上下」と言う表現が、あることから

ひょっとすると、上の屋形が内ヶ嶋氏の住居、そして

下の屋形が天正地震前、猿楽の舞台を行った

能舞台を備えた場所、だったかもしれません。

 

 

 

 

新・牧戸城について (2013.7.2発表 7.8追加)

2013.6.8に高山市荘川町牧戸に新たに発見?された牧戸城を見学して来ました。 元来、牧戸城と呼ばれてきた城郭は正式には「向牧戸城」と言い、牧戸の向かいにあるお城ということのようですが、今回は本物、直球の牧戸にある城跡、ということで地元では「牧戸城」と立て看板も設置されています。 ただし、正式な名称として牧戸城となるかどうかはまだ、自治体の発表を待たねばならないようです。 牧戸城に向牧戸城、、、若干、ややこしく混乱も予想されるので、何とか、わかりやすく決着して欲しいのですが・・・。

 

さて、この牧戸城、、、

画像の緑のピンの位置にあります。(およそ)そして向牧戸城の位置が赤いピンの位置になります。

 

この新しい牧戸城の築城目的はなんだ?と言う疑問が湧いてきます。我々、研究会でも議論されており、一つの仮設として金森氏の飛騨侵攻時、向牧戸城攻めに於いて、金森軍が作った陣城(付城)ではなかったのか? という仮設です。 新・牧戸城には虎口があり、似たような作りの城跡が他所にも見られると言う見解です。 確かに、向牧戸城に籠る内ヶ嶋軍(三木軍とも言われる)と対峙するための陣城は必要であり戦国末期の城攻めではスタンダードになっていると言っても過言ではないほどの城攻め法です。 事実、近年、飛騨地域においても陣城に近い砦のような構造物が大きな城の近くで見つかっていて陣城(付城)の需要があったことを物語っていると思われます。

 

そして今回、新しい牧戸城が果たして向牧戸城に対する付城なのか?

本丸と思われる場所は土塁(曲輪)で囲まれており、周囲はおよそ100m〜120mといったところです。 標高は700m以上ありますが国道156号線からはせいぜい40mほどの高さです。もっとも戦国時代、現在の国道は存在せず、川沿いに道があったと思われるので実際にはなかなか急峻な砦だと思われます。 

 

しかしながら、、、川を境にして距離のいない所に2つの城が・・・上の画像にもあるように本丸周辺からでも両者の距離は400m弱しかありません。実際には両軍の前線は川に近い所にあると思われ、川の両岸に陣取る、という極端な対峙になってしまうのです。 これはあまりに近すぎるのではないか? と、現地を見て、また後でナビソフトで確認してみた時に違和感を感じることとなりました。 つまり、新しい牧戸城は少なくとも向牧戸城の付城として造られた、もしくは使用された、とは言えない気がするのです。 ましてや、新しい牧戸城から尾根続きで1Kmもない南に内ヶ嶋氏のお城と言われる新淵城があるのです。 かりに新淵城にも内ヶ嶋軍が立て篭もっていれば、金森軍は非常に不利と言えます。(新淵城が戦闘に関わったという根拠も事実もありません) 

 

 

ただ、実際に向牧戸城にて両軍の戦闘はあったので、金森軍がどこかに陣取ったのは確実でそれがどこなのか? やはり、この牧戸城だったのかもしれないし、他の場所に陣取ったのかもしれなせん。 もっとも城郭としての構造であることは間違いがありません。

 

 

金森軍vs内ヶ嶋軍 向牧戸城の戦い〜岩瀬橋の戦い 1585年

画像をクリックすると拡大できます
金森長近の飛騨攻め対内ヶ嶋

 

 

新・牧戸城が金森軍の陣城(付城)になりにくいであろう事情は他にもあります。 実はこの飛騨攻めの折、金森長近、可重親子は越前大野を出発しその後、石徹白の中居神社にて戦勝祈願をし、白川郷に侵攻したと言われています。 金森長近は画像の左上方面、、、、

 

越前大野→穴馬→石徹白→白山越え→尾上郷→海上(現・荘川桜付近)

 

と言うコースで白川郷に攻め入り、子(養子)の可重は郡上より郡上街道をストレートに牧戸付近に現れたと言われています。 しかし、この侵攻ルートだとすると矛盾が生じます。

 

・金森長近の場合

海上に現れると、そこはもう照蓮寺のすぐ近くになり、この時点ではまだ敵対していたと思われます。

 

 

・金森可重の場合

郡上街道をそのまま進んでくると新・牧戸城に入る前に激しい戦闘になった向牧戸城の前を通らなければならず、迂回したとしても同じく内ヶ嶋氏のお城、新淵城の脇を通過しなければならず、どちらにしても新・牧戸城に行く手前で戦闘に突入してしまいます。

 

 

金森長近の場合には、先導をしたと言われている石徹白彦衛門によって照蓮寺側との話し合いが事前に持たれ、和解が成立していたとの話も伝わっています。

 

また、金森長近の場合は、南下しながら岩瀬橋辺りから右岸を通り現在の庄川沿いではなく落部川沿いを南下し、現在の荘川ゴルフクラブ周辺を進むことで新・牧戸城に入ることはできそうです。

 

2013.7.8

 

 

 

 

荘川桜から読み取る戦国末期の様子におついて(2012.12.20)

推定ではありますが、荘川桜の樹齢は約450年ほどと言われています。 今年が2012年ですから単純に引き算してみるといつ頃植えられたのか?だいたいの植樹年が分かります。

 

2012−450=1562(年)

 

ということになります。

国内ではあの織田信長が衝撃的なデビューを飾って飛ぶ鳥落とす勢いの頃、、、

内ヶ嶋氏の領地である白川郷においては、どんな頃だったのかというと、1570年〜1573年頃に中野照蓮寺が炎上消失したという記録が残っています。 そして1574年に再建された、とあります。

 

樹齢にも多少の誤差はあるでしょうから、再建された照蓮寺に記念植樹された桜がひょっとすると現在我々がキレイだな、と言って見ている荘川桜である可能性も考えられます。

 

またはこの時期に白川郷での大きな事件といえば1585年の豊臣秀吉は金森長近に命じて行われた飛騨攻め・・・

これにより白川郷の覇者、内ヶ嶋氏が無条件降伏、そして詫びを入れての原状回復した年でもあります。(後に天正大地震にて壊滅・滅亡)

 

当然ながら照蓮寺門徒衆にとっても戦争が回避されたことに対する喜びもあったことでしょう。 その記念に桜を植えた、そんな流れも想像できます。

また、金森長近が白川郷に侵入した時に道案内をしたのが石徹白彦衛門という人物。 

この道案内の功績があったからかどうかは知りませんが金森長近より、照蓮寺周辺に領地をもらい現在でも史跡として石徹白彦衛門屋敷跡なるものが残っています。

 

もしかすると、この男が桜を植えた可能性もあります。

 

実は荘川桜というのは二本あって一本は上記の照蓮寺の桜、そしてもう一本が光輪寺の桜、、、この二本をもって荘川桜と呼んでいます。 その光輪寺は現在では移転して岐阜県の関市にあります。

 

この二本の桜、樹齢的には同じ年、同じ日に植えられた可能性だってあります。 だとすると照蓮寺のみのイベントで植えられたのなら光輪寺の桜はどうよ? ということになるので何か共通するようなイベントがあったのかもしれません。

だとすれば、照蓮寺炎上後の再建による植樹というのは考えにくいか?

 

照蓮寺と光輪寺の位置関係ですが実は隣同士といっても差支えがないほどご近所さんです。 水没前のこの地域では中野小学校を挟むように照蓮寺と光輪寺がありました。 この位置関係は植えられた桜の位置が動かせない事から考えても照蓮寺も光輪寺も動いていないはずです。

 

以上に理由から確証も根拠も乏しいんですが、私はこの二本の桜が植えられたのは1585年、金森長近の飛騨攻め終了後に平和が戻ったことを祝う、植樹だった、、、と推理してみたいです。

 

                        21012.12.20 赤影

 

水没した中野が照蓮寺の場所として選ばれた理由(1)

内ヶ嶋軍と飯島正蓮寺軍(三島教信・明教兄弟)が戦って内ヶ嶋軍が勝利して飯島正蓮寺は消滅したのが1480年台のことですが住職の遺児だった明心さんが蓮如の仲介により再び白川郷に戻ってきて再興された新生”照蓮寺”(正蓮寺→照蓮寺へ)が創建されたのは白川郷中野で以降、このお寺は「中野照蓮寺」と呼ばれています。 飯島正蓮寺のあった場所は現在の白川村飯島地区、道の駅白川郷の近くになります。 そこから中野・・・中野地区は現在の高山市荘川町で旧荘川村中野で現在は御母衣ダムの底となっており、今はもう見ることはできませんが過去の写真を見るとその一端を窺い知ることができます。 飯島から中野へ、そして照蓮寺を再興するために選ばれた地が何故、中野だったのか?

 

伝説によれば、、、内ヶ嶋領内では壮絶な誘致合戦があり収集がつかないので大杉を牛に引かせて止まった所に建てようということに決まって大杉を引いて歩き始めた牛が止まって動かなくなったのが、中野だったということになっていて、その証拠に中野地区にはダム建設前まで牛の池という場所がありました。 あくまでもこれは伝説で本当は色んな戦略によって内ヶ嶋氏によって中野に決められたというのが実情でしょう。

 

表紙の写真にもあるようにこの地域は内ヶ嶋氏の領内でもかなり開けた、そして人の多く暮らせそうな地域で帰雲城があったとされる保木脇とは雲泥の差、、、むしろ中野あたりに帰雲城を建設した方が良かったと思うほどです。 それなのにこんな適した場所が照蓮寺の建設地になり、決して適地とはいえない(ように見える)保木脇が領主の居城になったのか?この辺りも考えてみる余地がありそうです。 (続く)

 

2012.7.30 

帰雲城(館)のあったであろう標高(高さ)について

2012.5.2 文献の再分析を始めた。 今回、再分析しようと思いついたのは天正大地震直後に書かれた石山本願寺日記より「顕如上人貝塚御座所日記」に書かれている記述である。

 

飛州の帰雲と申す在所は 内島という奉公衆ある所也、

地震にて山崩、山河多せかれて、内島在所に大洪水かせ入りて

内島一類地下の人にいたるまで、不残死たるなり、他国へ行きたる者四人のこりて、

泣々在所へ帰りたる由申訖、在所は悉淵になりたるけり

 

翻訳すれば、、、

飛騨白川郷の帰雲(現帰雲山と三方崩の間の範囲と考えられる)という処は内ヶ嶋氏とよばれる室町幕府将軍の直轄軍に属する連中がいる所である。

今回の地震によって山が崩れた。 崩れた土砂で自然のダムができたせいで

内ヶ嶋氏のいた所(帰雲城もしくは館)には大洪水に見舞われ、また内ヶ嶋一族も

その他住民もすべて一人残らず死んでしまった。

たまたま他国(越中)に行っていた四人のみが助かったが泣く泣く帰るのを

断念した。

その結果、彼らや内ヶ嶋氏のいた所は淵(ダム湖のようなものだと思う)になってしまった。

 

多少、翻訳がずれているかもしれないが、おおよそはいけていると思う。

今回、内ヶ嶋氏理を始めとする内ヶ嶋一族がいたであろう帰雲城(館)の場所を特定するに幾つかのヒントが含まれていると思う。

とくに後半に書かれている「内ヶ嶋氏のいた所は大洪水に見舞われた」と「在所は淵になってしまった」という箇所である。

 

この二箇所から読み取れるのは帰雲城(館)のあった場所と言うよりは標高(高さ)だろう。

淵になった、大洪水に見舞われた、ということは水に浸かった範囲の高さまでに帰雲城があったということになる。 つまり、やたら高い場所には帰雲城は無かったという証明ではないか。

 

では、天然のダム湖ができた時、最大でどれくらいの水が溜まっていたのか? これは予想ではあるが溜まった土砂がおよそ10mという研究結果がある。 その上にさらに水が溜まっていた事になり少なくとも現在の川底からは20m程度は高い位置に水面があったかもしれない。 この報告が間違っていなければ現在の庄川よりも20mほどのの高さ、それ以下の所に帰雲城があったことになる。

 

そして土砂ダムができたのは左岸の三方崩と今でも崩壊面が残る右岸の現・帰雲山を結んだ区域になる。 だとすれば、水が溜まるのはダムより上流に限られるので土砂ダムよりも下流に帰雲城があった可能性は無い。

 

以上のことから言えることは、帰雲城(館)があった場所は弓が洞から観音像までの間で天然ダム湖によって水没したとみられる高さ以下、ということになる。

 

今後は調査会が有望と見ている「堂の上」や通称「カエル池」といった場所と庄川からの高さを調べなおして水没したのかどうか?について検証してみたい。

 

なお、調査会とは別に私とT氏は最近、新たに有望と思える場所を見つけた。 この場所は上記の条件にピタリと嵌っている。 今後も研究・調査していきたいと考えている。

 

レポート提出日 2012.5.2

 

天正地震後の帰雲
天正地震後の帰雲