帰雲城はどんな城?


合掌造り集落(荻町)
合掌造り集落(荻町)

 

帰雲城ってどんな造りのお城だったのでしょうか? 帰雲城の場合、山の上のあったのではないかと思われる詰城ではなく普段の居住空間であった内ヶ嶋氏の屋形(館)について考えてみたいと思います。

 

 どんなお城だった?と聞かれても正直、とても難しい問なのですがヒントが全くないわけでもないと作者は考えています。 イメージでは今あるお城の天守や本丸御殿などを想像しがちですが白川郷の場合にはかなり趣の違った屋形になっていたのでは?

 

 ズバリ!作者の考える帰雲城(屋形)は・・・合掌造り、、、です。

 

 合掌造りと一口に言っても入母屋タイプもあれば切妻タイプもあり白川村と五箇山では造りが異なっている事はありますが基本、帰雲城は茅葺屋根で作られた合掌造りタイプの屋形ではなかったかと考えているわけです。

 

 その理由は、、、

 

 合掌造りと言われる家屋は今の白川郷(荘川・白川)から五箇山、砺波市の南部という比較的狭い地域で発達したことが判っていますが、この合掌造りの家屋がある地域と内ヶ嶋氏が最盛期に保有していた領地が重なっているのです。 つまり、合掌集落は内ヶ嶋氏の領地にしかなかった・・・。(異論はあると思います)

 

 作者が考えるには、今の合掌造りとは異なるかもしれませんが、合掌造りの原型は内ヶ嶋氏の屋形にあったのではないか、大雪から家を守り屋根裏のスペースを使って養蚕を奨励したかもしれません。 合掌造りの家屋そのものは江戸中期の作品だと言われてはいますが、このような特殊な家屋が突然産まれたとは考えにくく、以前に参考になるような実物があったと思うのです。 それが内ヶ嶋氏の屋形、帰雲城です。

 

 合掌造りの優れた点は、ひとつの家屋に大勢が暮らせることです。 人が住める面積の少ない白川郷にはモッテコイの家屋でしょう。 これまた独自の大家族制と関連していると思われます。 また屋根材に使う茅も豊富に用意できたでしょうし、屋根の葺き替えも現在も白川村で行われている近所の住民総出で手伝う”結”というシステムもひょっとしたら内ヶ嶋氏の屋形の屋根を吹き替えた時に始まったかもしれません。(想像です)

 

 


 

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