内ヶ嶋(うちがしま)氏という名字、非常に珍しい名字です。 ところが現在でも内ヶ嶋さん、、地域的にはかたまって多く在住している地域があります。 この理由については後ほど、説明したいと思います。 さて、内ヶ嶋氏ですが文献・史料によれば信州松代(現在の長野市付近)から白川郷へ入ってきたと書かれていますが私が調べたところによると信州には内ヶ嶋という名前が出てこないのです。(見つからないだけかも?) さらにはあの、「楠木正成」の末裔だと言います。 ちょっと待って下さい? 楠正成と言えば後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を倒し以後、南朝方 の雄として活躍した一族です。 ところが、内ヶ嶋氏は何と、足利幕府八代将軍「足利義政」の命令で白川郷に入っているのです。 足利と言えば楠正成と戦った足利尊氏が開いた幕府。。。南朝方は敗北して離散してしまったはず。 その南朝の雄、楠木正成の子孫だという内ヶ嶋氏が北朝の足利幕府の家臣としてふるまったのでしょうか? それも奉公衆であったと言われているのです。奉公衆とは、警備など将軍直属の軍隊のことを言うそうです。 早い話、直属部隊で側近みたいなのです。 この異常接近にも何か秘密がありそうです。 他にも謎はあります。 何故、内ヶ嶋という苗字を名乗ることになったのか? 日本のどこかに内ヶ嶋という苗字の豪族などがいなかったかどうか調べてみると・・・・・。
しかし、そのヒントになるようなものがないわけではありません。 さらに時代は遡って鎌倉幕府成立前、関東に「内ヶ島五郎」なる人物がいたのです。 こちらの内ヶ島氏は武蔵国(現在の埼玉県深谷市)に居を構え、お城に近い館を持っていたと言われ現在も「内ヶ島館」として遺構こそありませんがお寺(永光寺)が残っています。 おまけに住所は深谷市”内ヶ島”にあります。 近年、内ヶ嶋氏のご先祖様はこの人達でじゃないのか?とも考えられるようになってきました。 だとすれば、前出の楠正成の末裔という話はどうなるの?ってことになってしまいますが、この説も文献の作者が根拠を持って載せたものでしょうから調べてみたいと思います。
仮に内ヶ嶋氏が楠家末葉だとすると、楠氏について調べてみる必要があります。 楠氏もまた「悪党」と呼ばれていました。 また、忍者の系統にも「楠流」という派が存在します。 伊賀上野の忍者博物館へ行くとそのことが分かります。 楠正成自身、主戦法はゲリラ戦を得意としており、特殊技術集団と言ってもいいのではないでしょうか。 もし、特殊技術の中に「金堀」があったとすると面白いことになります。 内ヶ嶋氏は白川郷に入ってすぐ砂金の採れる場所を数カ所見つけて比較的、財力があったと言われています。 噂の域を出ませんが、足利義政が造営した「銀閣寺」の資金も内ヶ島氏が献上した、、、等という話もあります。
もう少し、出自についてこだわってみたいと思います。 内ヶ嶋氏が南朝方なのにどうして足利幕府の奉公衆として活躍ができるのか? ひょっとして寝返ったのか?それとも許されたのか?また、豊富な財力で取り入ったのか? そこまでは分かりませんが、奉公衆として歴史に登場するのは南朝方が敗れてから100年以上が過ぎていますが、腐っても足利将軍の警備などを任されるのが奉公衆であることを考えるとかつての宿敵に奉公衆を任せる事例が他にもあったのかどうか? どうみても最初から足利氏に付いていた一族であった可能性の方が高そうです。
しかし、分からないのが信州松代です。 足利義政の命令で松代から白川郷へ移ってきたことはともかく、地元の松代の領地はどうなったのでしょうか? 国替えにでもなったのでしょうか? その後の松代周辺と言えば、ご存じ六文銭でお馴染みの「真田氏」の領地です。 松代に内ヶ島氏の足跡が残っていないのは、大名とか守護ではなく奉公衆という旗本みたいな武士団だったから目立たなかったのか?
もう一つ、「家紋」についても述べておきましょう。 内ヶ嶋氏の家紋は「菊水」だと言われています。 菊水紋と言えば「橘系」で、楠氏の家紋も菊水です。 ただ、飛騨に残る史料によると最初は菊水だった家紋を「三巴」に変えた、、、とあります。
しかし、内ヶ嶋氏が楠木正成の末葉であることが非常に怪しくなってきた現在、反対に猪俣党である可能性が高くなってきたことを考えると家紋は二本松であったと考える方が正しいのかもしれません。
そこで疑問。。。 家紋ってそんなに簡単に変えられるの? なんて事になりますが、どうやら簡単に変えられたみたいです。当時は家紋だけでなく家系図まで偽造したり書き換えられたり・・・が当たり前だったようです。やはり誰もが名門でありたい!と考えるのが普通であろうと思いますが、内ヶ島氏の場合、ご先祖様が楠氏なら菊水、猪俣党からでたとすれば、二本松ではないかと思います。
飛騨のことを記した文献、斐太後風土記によれば、「御花園天皇御代(1428-1464) 信濃国松代住人楠氏の末葉なる内島将監橘為氏、足利義政将軍の命を奉じて白川に来たり、其威勢を振るひ、村々を兼領し、寛正の初牧戸に城を築き勢強く、小鳥郷はさら也、越中国砺波郡川上郷も押領せり、家臣には山下、尾神、川尻等の勇士有りて、破竹の勢ひになりぬ」とあります。