内ヶ嶋氏と照蓮寺


高山城二の丸にある現在の照蓮寺
高山城二の丸にある現在の照蓮寺

 

 照蓮寺=しょうれんじ、と読みます。 浄土真宗東本願寺派で飛騨随一の格式を備えたお寺だと言われています。 現在は高山城の二の丸跡付近に鎮座していますが、これは金森長近が飛騨の領主になって以降、の事です。 照蓮寺は元々、ここのあった訳ではありません。 照蓮寺の開基は白川村の鳩ヶ谷で当時は照蓮寺ではなく「正蓮寺」と書いていたようです。(不明) このお寺を語るにはある一人のお坊さんに登場をお願いしなければなりません。 そのお坊さんの名前は、「嘉念坊善俊」(かねんぼう ぜんしゅん)と言います。

 

 


荘川桜そばの嘉念坊善俊さん
荘川桜そばの嘉念坊善俊さん

 

 左の写真の人が、嘉念坊善俊さんです。 この像が建っているのは、あの荘川桜で有名な荘川村中野地区なんですが、それがいわゆる「中野正蓮寺」です。 まあ、お寺よりも「桜の移植」の方がずっと有名でしょうけど。。。 話を嘉念坊善俊さんに戻しますが、この人、後鳥羽上皇の第十二子(岷江記)また、同じく後鳥羽院第二皇子で出家した「善性」なるお坊さんがいて、善性の次男で後に親鸞聖人の弟子になった(不遠寺記)とも言われていますが、イマイチ疑わしくもあります。 嘉念坊善俊さんの正体については謎として扱うことにしますが、嘉念坊善俊さん、最初は郡上の白鳥で布教活動をしていたらしいのですが、この地は長滝寺(白山信仰)の勢力が強すぎて(当時)思ったように布教ができず、白鳥を離れて北上し白川郷へ移ってきたらしい。 白川郷での落ち着き先は「鳩ヶ谷」(白川村役場のある所)だったわけですが、当時の白川郷は郡上周辺と違って長滝寺の影響を受けていなかったみたいで順調に布教活動ができたようです。 その後、各地区に道場(布教所)作り、69歳にて死去。


荘川桜
荘川桜

 

 その後、150年以上が過ぎてようやく正蓮寺vs内ヶ嶋氏の抗争になるわけですが、その間の正蓮寺についてはほとんど史料がありません。 これまた大きな謎の一つなんですが、これもまた後に分析してみたいと思います。 結果的に正蓮寺は内ヶ嶋氏との抗争に敗れて一時的に本拠を失うことになります。 つまり正蓮寺の消滅です。 この正蓮寺の一時的消滅を演出してしまった当事者は二名、「三島将監教信」と正蓮寺九世「明教」の兄弟でした。 いわれに因れば、兄の教信は住職の座を弟の明教に譲り、還俗して武士になり三島姓を名乗り内ヶ島氏との戦いに備えたと。。。そしてこの明教の息子「亀寿丸」(後の明心で当時二歳)が京都や永平寺で修行をし、正蓮寺の復活を志して15歳の時、白川郷へ戻ってきた、さらに宿敵・内ヶ嶋為氏(初代)の娘と結婚し、正蓮寺は照蓮寺と名前を変えて鳩ヶ谷から中野へと移った訳です。


高山別院
高山別院

 

 中野へ移された新生「照蓮寺」はかなりの規模の寺院だったようです。 照蓮寺十世「明心」なる人物は立派なお坊さん(と言われている)で照蓮寺の歴史を綴った「岷江記」には、この明心さんから後、詳しい記述が続くようになってます。 歴史的に見て内ヶ嶋氏登場と抗争因縁というイベントはあったにしても、それ以前の住職についてはほとんど書かれていないのに明心さん以降は詳しく書かれているのも不思議というか疑問が残ります。 この時、なぜ「中野」なのか? 伝説に因れば建設資材を運んだ牛が中野の地へ来て全く動かなくなったとか、言われていますがこれは作り話でしょう。 照蓮寺と言えども一向一揆の集団ですから内ヶ嶋氏からすれば常時、監視できる場所にあった方が何かと都合がよい、、、後の飛騨の領主になった金森長近は一揆を警戒して高山城下に照蓮寺を移したとも言われています。 それくらい侮れない集団だったにもかかわらず帰雲城のある保木脇からはかなりの距離がある中野に決まったのはなぜか? これは推測するに、一揆が起こるような状況ではなかった、安心できる良好な関係が照蓮寺と内ヶ嶋氏と間にあったのでは、、、と思われます。 となると、過去にあった照蓮寺と内ヶ嶋氏との抗争もなにやら胡散臭い感じがしてきます。 本当に白川郷の新領主「内ヶ嶋氏」」と「照蓮寺」という領主対領民の戦いであったのかどうか? 実は、別の展開があったのでは?と思えてなりません。 実際、照蓮寺関係の本にも内ヶ嶋氏との抗争において非難する文章は載っていますが、一方で照蓮寺が発展できたのは内ヶ嶋氏の貢献によるものである、とハッキリ書かれています。