帰雲城があったとされる場所は庄川の左岸なのか?それとも右岸なのか?
まずは、これが帰雲城探しの入り口になります。その候補地を航空写真から拾ってみることにします。
注: 庄川の左岸とは1〜4の候補地がある国道156号線がある写真左側で右岸が帰雲山の崩壊面がある候補地5がある写真右側を指します。
←の航空写真を大雑把に説明すると、庄川があり左方向が牧戸方面で右方面が荻町です。あと、国道156号線と帰雲山の崩壊面、そして昔の絵図に出てくる旧皈雲山?を書き入れてみました。
この中で帰雲城の候補地を一応、5個(本当はもっとあっても良いと思います)あげてみました。
1.下の絵図そのままの皈雲城跡と書かれた場所
2.もう一つの絵図に内?城址と書かれた場所
3.現在、帰雲城跡とされている観音像のある場所
4.帰雲城調査会の狙っている国道上の通称堂の上と呼ばれる場所
5.庄川右岸(中腹説などもあって範囲を広げました)
しかし、帰雲城と言っても文献の中には「上下屋形」(屋形=館)つまり城主の普段の居住空間である下屋形(館)と有事の時に立て籠もる詰めの城とに別れていた可能性もあります。(当時の山城はこういうパターンがよく見られます。例えば一乗谷等)
だとすれば、印の場所が果たして上の館なのか?それとも下の館なのか?そこが問題なのですが文献に出てくる屋形はおそらく普段の居住地域である下の屋形ではないかと私は推測しています。
この古地図によれば帰雲城は絵図左下、赤枠で囲まれた保木脇の上に赤丸の所に皈雲城跡と書かれています。つまり、この絵図の作者はどういう情報を得ていたのか?分かりませんがかなりハッキリと皈雲城(帰雲城)と記しています。江戸期には帰雲というよりも絵図のように皈雲とか歸雲という表現が多くなっています。
絵図の皈雲城跡の左に谷が書かれていますがこの谷はおそらく弓が洞谷でしょう。また太い青線は庄川で間違いがないと思われます。
方角的には右方向が下流で富山湾へ、左方向が上流で牧戸や荘川方面になります。
また、皈雲城跡のすぐ上に書かれている山はおそらく旧の皈雲山ではないかと予想しています。 皈雲山本体かどうかは分かりませんが峰続きで皈雲山の一部ではないかと想像しています。
この場所が上の航空写真の候補地1.になります。
ここにも保木脇の上に内?城址と書かれてあるのが見えます。
城址と書かれた所に城(屋形)があったのか? それとも城趾が保木脇にあったことを示しているのかは不明ですがこの頃の絵図によれば、多少の位置のズレはあっても帰雲城の場所が特定できそうな予感もあります。
城趾の左にカヘリ雲川という川があり、対岸にもカヘリ雲という地域が見えます。
カヘリ雲川はおそらく弓が洞谷かと想像できますが、対岸のカヘリ雲は現在の帰雲山の崩壊している山を指しているかもしれないし、そういう地名があったかもしれないし、最悪、絵図の作者の勘違い・・・という可能性も。。。
ただ、残念なのは内?城址と書かれた、?の文字がいったい何なのか??
内ヶ嶋の島?何故、こんな分かりにくい字を書いてしまったんでしょう・・・
まるで後世に謎を残すために分かりにくく書いたみたいです。
しかし、何とかこの?の文字を他文献を調べて解読したいと思います。!
ちなみにこの場所が先頭の航空写真、2と4を直線で結んだ位置になります。
とくに4の位置は帰雲城調査会がピンポイントで狙っている地点です。