保木脇に被災地形いまだ残る
2013 H25 05 21
帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員活動報告書
先日、岐阜県大野郡白川村保木脇の田口プラント一帯の縦断調査を実施した内容を、活
動記録として紹介します。
2013H250412、五箇山の岩瀬家を見学。帰りは平瀬地区の旅館に宿泊。4/13朝、この間々
帰るのはもったいないので、平瀬にて聞取り調査をする。以前帰雲城の試掘をした場所は
どこですか? O:「田口プラントから山道を北に進んだところだ」と、紙に書いてもらう。
このメモを頼りに現地へ向かう。この場所かと確認をして帰る。
後日、家で今回おしえてもらった場所一帯を調査したいがどうしようか考えた。まてよ、
今雑草の新緑が芽吹く前なので、現地で「地表観察」は絶好のチャンスだぞ。でも来年の
調査でもいいか、いや今しかないぞということで調査決行を決めました。さて、現地調査
するのに手ぶらで行こうか、それじゃー何の記録というか成果も得られないと思ってあわ
てて5000分の1地図を用意しました。
4/26、保木脇、田口プラント北の山道にて、長靴に履き替え、鈴とカウベルを付けて調査
開始8:30。まずいちばん北にある送電線鉄塔を目指す。鉄塔で番号を確認すると、5
3鉄塔だったのでメモをする。そして1(↓の図を参照)の小山へ移動する。1の小山南
から、2の小山に移動する。2の小山から西下の窪地というか低地を目測するとおおよそ
約30mの低さ(比高)があった。めちゃくちゃ深いじゃありませんか。2の小山の西と
南に中ぐらいの岩が散乱していた。このまま南へ歩きたかったが、かなりの困難を伴うた
め断念して引き返した。
山道を南へ進み、山道から鉄塔のある場所を目指した。少し高い場所に鉄塔があり確認
すると、54鉄塔だった(7の場所)。比高は約10mぐらいである。東に歩き3の小山を
攻略する。なぜか小山は南北にながーい距離続いておらず細長い小山状ではあるが途切れ
ているのが理解できない。
確か天正13年の大地震で右岸の山から崩れ落ちた土砂が庄川という川を越えてこちら
側、保木脇のこの辺りまで到達しているのだから小山は南北数百mに長くてもいいんじゃ
ないの?と思った。
次に6の小山の東西2ヶ所ある場所に立つ。地図にはこの6の小山は622mとなって
いる。西に小山(8の場所)が確認できる。そして4の小山をゲットする。比高は約20
mぐらいだ。歩きにくいが南へ移動して、5の小山へ来た。比高は約10mぐらいで、こ
こには携帯電話の中継タワーが立っている場所です。ここから南へ歩き、いったん山道を
また北に進み近くに見える鉄塔へと分け入った。少し高くなっている場所(9の場所)を
確認すると55鉄塔でした。
あとは、西に戻り山道を北に進み、また東に入り、また西に戻り山道を北に進み、東に
入りを繰り返して、地図に記入をしました。
現場は雑草が生える前とあって歩きやすく、喜び勇んでピクニック気分で調査できた。
そして、現地は「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在していたことに驚いた。
なーんだ、約420年(427年)前の天正13年の大地震で右岸の山から崩れ落ちた
土砂岩石がこの辺りまで到達して、堆積している地形がその間々そっくり残っていたんだ
と思いました。あと、場所を移動してデンカ生コン跡東を調査。小山2ヶ所と大岩ごろご
ろを確認した。調査終了10:30。帰路。 ↓が現地で記した地図です。さて、地図に
小山の場所をどう書いたらいいのか分からず、楕円の2重丸(◎)にして、低地部分は丸
に斜線として、谷はT1~T4と記しました。
家に戻り、記入した地図を見て気がついたことを述べます。
1、高い場所というか小山は、国道156号線西沿いに、1、2、3、4、5、と途切
れ途切れではあるが続いている。
2、次に、7、6、9、と単独の小山が存在している。
3、(小字)後平の山沿いに、A、B、C、D、と小山がある。
4、調査した東西約200m×南北約600mにある高い場所と低い場所の高低さ(比
高)は、目視で約10~30mぐらいだった。
5、調査した南北約600mの西の(小字)後平の斜面におおよそ4ヶ所の谷が確認で
き、その谷の麓は地図に記した底部部分と一致する。
6、調査した範囲には「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在している。
7、天正13年の大地震で右岸の山から押寄せた土砂堆積物は1、2、3、4、5、で
はないかと推測する。
8、単独の小山がある7、6、9、について、右岸からの土砂堆積物か、左岸からの土
砂堆積物によるものなのかは分からない。
9、安政2年(1855年)の地震で保木脇を埋めた土砂は国道156号線のある下段
部分だと聞いている。
10、調査した場所は、(小字)後平(あとひら、うしろひら)か、(小字)帰雲川原にな
るのか未確認。
今回、保木脇の54鉄塔一帯の現地調査を実施して帰雲城はどこか?という謎にぶち当
たることとなった。改めて帰雲城の居城(城主の屋形、館)の場所を3ヶ所推測してみた。
1、54鉄塔一帯か?←上段部分であり、水源あり
2、(小字)堂ノ上一帯か?←上段部分であり、谷水源確保可能、古地図に記載あり、
地名も候補
3、(小字)帰雲川原一帯か?←地名が候補
↓は、保木脇の(小字)後平の東斜面の谷筋T1~T4
家に戻り、記入した地図を見て気がついたことを述べます。
1、高い場所というか小山は、国道156号線西沿いに、1、2、3、4、5、と途切
れ途切れではあるが続いている。
2、次に、7、6、9、と単独の小山が存在している。
3、(小字)後平の山沿いに、A、B、C、D、と小山がある。
4、調査した東西約200m×南北約600mにある高い場所と低い場所の高低さ(比
高)は、目視で約10~30mぐらいだった。
5、調査した南北約600mの西の(小字)後平の斜面におおよそ4ヶ所の谷が確認で
き、その谷の麓は地図に記した底部部分と一致する。
6、調査した範囲には「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在している。
7、天正13年の大地震で右岸の山から押寄せた土砂堆積物は1、2、3、4、5、で
はないかと推測する。
8、単独の小山がある7、6、9、について、右岸からの土砂堆積物か、左岸からの土
砂堆積物によるものなのかは分からない。
9、安政2年(1855年)の地震で保木脇を埋めた土砂は国道156号線のある下段
部分だと聞いている。
10、調査した場所は、(小字)後平(あとひら、うしろひら)か、(小字)帰雲川原にな
るのか未確認。
今回、保木脇の54鉄塔一帯の現地調査を実施して帰雲城はどこか?という謎にぶち当
たることとなった。改めて帰雲城の居城(城主の屋形、館)の場所を3ヶ所推測してみた。
1、54鉄塔一帯か?←上段部分であり、水源あり
2、(小字)堂ノ上一帯か?←上段部分であり、谷水源確保可能、古地図に記載あり、
地名も候補
3、(小字)帰雲川原一帯か?←地名が候補
↓は、保木脇の(小字)後平の東斜面の谷筋T1~T4
帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書
帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書
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帰雲城主、内嶋氏が白川郷で1464年~1586年までの120年余り、家臣の山下氏、川尻氏、尾上氏についての活躍時期が気になっていたので、内嶋氏の年齢と共に年号順に分かりやすく並べてみた。
帰雲城主;内嶋為氏→雅氏→氏利→氏理
(帰雲城の支城)向牧戸城主;川尻備中守氏信
(帰雲城の支城)荻町城主;山下大和守時慶→山下大和守氏勝
尾神村?;尾上備前守氏綱 内嶋氏利の兄弟姉妹(女)を妻とする
・・・・・・・・・
内嶋為氏より先代の記述を『白川年代記』から紹介する。人物名の信憑性については疑問が残る。
1355年「文和4年、内ヶ嶋新蔵人経匤(つねまさ)荻町に城を構ヘ居住す」『荘川村史 下巻』21頁に「白川年代記益戸本」所収
1374年「応安7年、内ヶ嶋経薫(つねしげ)牧戸村に居城す。3代目牧戸村より萩
町に移住す」『荘川村史 下巻』61頁に「白川年代記 三島本」所収
1411年「応永18年、内ヶ嶋弾正忠経薫(つねしげ)弾は、父新蔵人経匤(つねまさ)とともに牧戸山に砦を構ヘ立てこもる。その家臣川尻備中牧戸村に住し、山下豊前萩町に屯す。弓大将荒川右馬丞新渕村に住し、市村縫殿介は越中五ヶ山に在て」『荘川村史 下巻』63頁に「白川年代記 三島本」所収
<内嶋為氏より先代の、内ヶ嶋氏の家臣として牧戸村の川尻備中がいる。萩町には山下豊前が住むが荻町城ではない。新渕村に弓大将荒川右馬丞、越中五ヶ山に市村縫殿介の名がある。>
・・・・・・・・・・
1420(応永27)年頃、内嶋為氏(ためうじ)生まれる?
1443(嘉吉3)年以前に、内嶋雅氏(まさうじ)生まれる。
<為氏23歳頃>
(西園寺家説)一代経喬(つねたか)→二代経匡(つねまさ)→三代経薫(つねしげ)
→四代氏綱(経つね)→五代為氏→六代雅氏
1449年「宝徳元年、牧戸城主内ヶ嶋経薫(つねしげ)の子、大監物氏経(うじつね)の子、太夫将監為氏代々相続する」『荘川村史 下巻』23頁に「白川年代記 益戸本」所収
<為氏29歳頃>
内嶋為氏活躍時代、内嶋雅氏活躍時代~↓
1460年頃「寛正の初、牧戸村に城を築き住居する。のち保木脇村歸雲山に城を築て」『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷 保木脇村』296頁
<内嶋為氏40歳頃、内嶋雅氏17歳頃>
1464年「寛正5年、内ヶ嶋為氏、保木脇村に帰雲城を築き移住。與(あたえ)牧戸
城於家老川尻備中某居之[三郡沿革]」『飛騨国大野郡史 上巻』187頁に「三郡沿革」所収
<内嶋為氏の家老、川尻備中が確認できる。為氏44歳頃、雅氏21歳頃>
「長享2(1488)年8月下旬内ヶ嶋、中河修理亮を隊将として、会稽の恥辱を雪(そそが)
んと其勢500余騎、越中より攻上りける」『神岡町史 特集編 』199頁に「飛騨略記(全)」所収
<為氏68歳頃、雅氏45歳頃>
1500年「明応9年、内ヶ嶋為氏悪病にて死す」『荘川村史 下巻』24頁に「白川年代
記 益戸本」所収
<1460~1500年まで内嶋為氏、雅氏の家臣で確認できたのは、川尻備中守氏信
である。内嶋為氏死去80歳頃、雅氏57歳頃>
内嶋雅氏活躍代~↓
1501年代 文亀年間「此節より国土の騒ぎも静まる程に、文亀の頃は川尻備中守よ
り白川郷海塩村道場へ嫡娘を呉度由、熟談して家住居繕(つくろ)い普請等改め、備中守を賞しける。此故備中守より仏閣の寄進にて四間四面の坊舎建立ありしかバ、増々繁昌と見えし」『大系真宗史料』327頁に「願生寺由来(抄)」所収
<この頃、牧戸城主の川尻備中守は、内嶋為氏白川郷入国前からあった海上村の海塩道場へ、地理的重要性も含め嫡娘を送り、仏閣坊舎を建て手厚く庇護している。雅氏58歳頃>
1503(文亀3)年以前に、内嶋氏利(うじとし)生まれる。
<雅氏60歳頃。>
1504(永正元)年以後に内嶋氏利の兄弟姉妹(女)が生まれる。のちに尾上備前守氏綱の妻となる。
1514年 永正11年 <雅氏書状>「大白河湯之事 被道切候者 自他可然候 就
其他所之衆 湯ちん之儀 幸千代殿江永代進置候 仍而為巳後之状如件 永正11年 甲戌7月10日 雅氏(花押)照蓮寺」『勝鬘寺文書』(古文書)
<内嶋雅氏、71歳頃の書状>
1514年「永正11年 帰国して今は名躰不二の荘厳調へ、その秋照蓮寺明心、了
教御父子にそのほか人数を招き移徙修行事終りて、一入の色こそ増りける。御酒を進め奉るころは八月末つかた、はや夕日も低(かたむ)けば、若き輩は庭前にて踊りけるを、勝手に居ける若者どもが提灯を点して出しければ皆夜に入りしまで遊び居て更(ふけ)て各々帰らるゝ。その供人の提げ行く提灯に家々の家紋、三嶋の家は三つ星に五葉笹、内ヶ嶋家は三つ巴(ともえ)、山下豊後守定安は三蓋松、川尻備中守氏信は九曜の星の、光は次第に遠ざかり離れ離れて見え隠れになりけるに、踊りは鶏の八声も過ぎ、終に明行となりにける。これ仏法繁昌の基かと見へし」『高山別院史 史料編』123頁に史料3「願生寺由来」所収
<内嶋雅氏の家臣である、山下豊後守定安と川尻備中守氏信の名がある。この記録は、白川郷の海上村にあった海上道場(のちの願生寺)が招いたうたげで、当時の白川郷での力関係を知る、三嶋家・内嶋家・山下氏・川尻氏の4人物名が書いてある。内嶋雅氏71歳頃、氏利11歳頃>
1531年「享禄4年3月、山科本願寺家宰下間實英(しもつまじつえい)、書を飛州内島氏へ送り居城炎上の事を慰問(いもん)す」『飛騨編年史要』167頁
<雅氏88歳頃、28歳頃>
1536年「天文5年3月12日、飛騨國照蓮寺子息のぼり、兄弟三人、内嶋上野子息
二人叉上野弟の子三人上洛。肴二獻亭にてあひ、一人をは兵庫助、叉刑部少輔、此兩人内嶋子、叉玄番助、叉喜四郎、叉九郎、以上五人。叉尾上右京亮(すけ)禮(れい)三百文到來此時に照蓮寺息に申事には、明日朝飯此方にて、内嶋の衆ヲ可取沙汰之由兼申へと申。内嶋より書状兩通のぼり、叉爲音信金壹(いち)兩到來」『石山本願寺日記』24頁に「證如上人日記・天文日記」所収
<この記録に尾上氏の名が登場する。尾上右京亮は尾上備前守氏綱と思われる。雅氏93歳頃、氏利33歳頃>
1536年 「天文5年3月25日、内嶋子息兵庫ニ織物一端、弟刑部少輔ニ織物、玄
番ニ織色一面、喜四郎ニ織色一面、九郎ニ織色一端、内者山下ニ織色一端、爲返禮内嶋上
野へも書状爲返禮織物一端遣(つかわす)」『石山本願寺日記』27頁に「證如上人日記・天文日記」所収
<山下?>
1539年 「天文8年11月14日、六角へ返事ニ、内嶋事ハ其身奉公之人、此方之
所堪に隨ざる人、不可有其・彼知行事會以不知之、結句彼郡内ニ内嶋被官事ニ就テ慣之儀返々門下事者面向之儀、此趣具進藤方申越させ、右之通内嶋方へ申下、此儀委書下彼案文寫(うつし)下、其文言ニ、此等趣以分別可爲遠慮肝要由認之」『石山本願寺日記』312頁に「證如上人日記・天文日記」所収
1539(天文8)年、内嶋雅氏没
<1500~1539年まで内嶋雅氏の代に、山下大和守時慶・川尻備中守氏信・尾上備前守氏綱が確認できる。雅氏死去96歳頃と長寿?、氏利36歳頃。>
内嶋氏利活躍代~↓
(年未詳) 19阿名院道雅書状「内嶋豊後殿宿所 阿名院道雅 経聞坊より其様へ御状今拝見候仍5百貫ニ而一宇之所 五十貫経聞坊へ可進事 心得申候(略)此旨向後之支証ニ可有御立候恐惶謹言卯月八日 道雅(花押)」『白鳥町史 史料編』922頁に「12経聞坊文書」所収
「起請文 右旨趣者 今度一乱之儀仁付而 内嶋殿 照蓮寺以御扱属無事候 然間於末
代 対鷲見殿互成水魚之思 無別儀可申談候 於此上自然之時 中意申族出来候共 大小
之事共遂直談 可申合候 万一此旨於偽申者 永世被相放御門徒中 罷蒙阿弥陀如来之御罰於来世者 可堕在無見奈落者也 仍起証文如件 遠藤新兵衛入道 胤秀(花押) 野田左近大夫 常慶(花押)十二月十七日 ・蓮寺 参」『勝鬘寺文書(もんじょ)』
「起請文 右旨趣者 今度一乱之儀仁付而 内島殿 照蓮寺以御扱属無事候 然間於
末代 対鷲見殿互成水魚之思 無別儀可申談候 於此上自然之時 中意申族出来候共 大
小之事 共遂直談 可申合候 万一此旨於偽申者 永世被相放御門徒中 罷蒙阿弥陀如来
之御罰 於来世者 可堕在無見奈落者也 仍起証文如件 遠藤新兵衛入道 胤秀(花押)
野田左近大夫 常慶(花押)十二月十七日 ・蓮寺 参」『白川郷ゆかりの寺院』86頁に「十七 野田常慶 遠藤胤秀連署起請文」所収(勝鬘寺文書)
1543(天文12)年、内嶋氏理(うじまさ)生まれる。
<氏利40歳頃>
1543年「天文12年、從内嶋兄弟就年始誕生有音信」。「内嶋兄弟へ就年始誕生還禮遣之」『石山本願寺日記』444頁「證如上人日記・天文日記」所収
1547年 「天文16年12月11日、飛州内島兵庫助氏利卒去に付、遺族より大阪
本願寺へ志納金五百疋を進上し、是日證如金千疋を送りて香典となす」『飛騨編年史要』180頁
1547(天文16)年、内嶋氏利没
<1539~1547年まで内嶋氏利の代は、家臣の主だった記録なし。氏利死去44歳頃、氏理4歳。>
内嶋氏理活躍代~↓
1549年 「天文18年、飛州白川内島兵庫頭氏利之女美濃國郡上東(とう)下野守
常慶の嫡子藤七郎常堯(つねたか)に嫁す。以上按ずるに此氏利と云うは氏理なるか」『飛州志卷第六』180頁
<氏理6歳>
1551年 「天文20年6月29日、内嶋夜叉熊母、同豐後母、豐後守、豐後妻四人
上津仍以肴一献對顏、豐後母、豐後守以一禮飮之、各以一盞愚(おろか)盃勸之、豐後盃者上野介飮納之、予四度呑小童へ、右衆雖(いえども)可致對面之由、誰々にも無對面之由、申出之處禮錢被出之、仍百疋夜叉熊母五十疋ヅ、豐後母、豐後守二人椙原十束豐後妻此分」『石山本願寺日記』630頁に「證如上人日記・天文日記」所収
<氏理8歳>
1559年 永禄2年、「遠藤盛数が東氏を滅ぼす。東常堯(つねたか)は追われ、妻の父である帰雲城主内ヶ島氏理のもとへ逃げよせた。」 <氏理16歳>
1561年 永禄4年、東常堯と内ヶ島勢500余騎が遠藤氏を攻めるが迎撃され白
川郷へ敗走『城101号 深戸城私考』(1981 S56 9/10)23頁に「高鷲穴洞村伝右衛門祖鷲
見保能旧記」所収
<氏理18歳>
1568(永禄11)年、山下氏勝(うじかつ)生まれる。白川郷荻町城主、山下大和
守氏勝<氏理25歳>
1576年 天正4年「内ヶ島帰雲の堡障を屠るべしとて山吉玄蕃允等その勢800余
兵、中略、差し向けらる、内ヶ島は是より響き信長に与して越前へ手を掛け、折節彼国に事有りて先頃より戦いし留守居の兵而己立てこもりしが味方一旦に攻落し悉く分捕して塩谷が人数を番隊として速やかに引返しぬ云々」『城118号』「帰雲城地底の黙示録(1985 S60 11/15)14頁に「北越軍談(北越家書)」所収
<氏理33歳>
1578年「天正6年6月、越中砺波内ヶ嶋の領分に一揆起り、市村縫殿介討取年貢運
送の道を塞ぐ。寅5月山下豊前越中の一揆退治に向けれども、微勢なるに因て一揆の為に討死せらる。嫡子興七郎美濃に落けるが、後代尾張の君へ召仕ヘ子孫今に至る。勤仕すとなり。荒川右馬丞発向越中勢と戦破れ行方知れず」『荘川村史 下巻』27頁に「白川年代記益戸本」所収
<氏理35歳>
尾神村の項「尾神備前守氏綱 内ヶ嶋家臣にて、二三代続しか未詳、天正年中の、備前
守氏綱は、主家内ヶ嶋上野介雅氏の女、(兵庫頭氏理妹)を妻とせり、天正13年乙酉7月、同僚牧戸ノ城主、川尻備中守は、越前大野城主、金森法印の先導(ミチシルベ)して、責來りしき、氏綱兵卒を將て、岩瀬橋にて、手痛く防禦(フセギ)しに依て、金森勢一先(ヒトマズ)越前ヘ引返し、越中長谷ヘ廻り、本土吉城郡、二ツ屋口より責入ぬ、備前守氏綱は天正13年、大地震の時、帰雲(カヘリクモノ)城にて、主人内ヶ嶋兵庫頭氏理一(モロトモ)に、壓死たるにや、事蹟詳ならず」『斐太後風土記卷八、九 大野郡白川郷小鳥郷白川郷』(富田家文書)(毛筆書)高山市まちの博物館所蔵 < 「 」内の振り仮名は原文のままである>
1585年 「天正13年8月2日、金森長近軍5000人が越前大野城を出発。
主力3000人長近軍は白山連峰の別山の峰越えをして上白川郷へ進み海上村、中野村
を攻めて尾神備前守氏綱軍と岩瀬橋で攻防戦となった。長近の養子可重(ありしげ)軍2000人は郡上の白鳥より北へ進み向牧戸城攻めをおこなった。長近軍は岩瀬橋から向牧戸城へ進むことができず引き返して郡上へまわり、可重軍と合流して野々俣から牧戸へ攻めた。飛騨の三木自綱(みつきよりつね)の軍が牧戸城守備に加わる。戦いは激しく長近の家来は夜になってから城に火をつけ混乱している城中の人たちを皆殺しにしたと伝えられている。向牧戸城8月10日落城。長近軍3000人は六厩川から吉城へ出て北の方から、可重軍2000人は三尾河から益田へ出て南の方から松倉城へ進んだ。」『郷土荘川』33頁
<氏理42歳。>
「中にも尾上備前と申す者、大刀数度武功有之者に候。備中を見大に顔色替り、こぶし
をにぎりひざの上に置き、歯をくいしばり、目をいからし備中をにらみ」『飛騨鑑』
<1585(天正13)年8月、岩瀬橋の戦いと鍋山城で尾上備前守氏綱の名がある。前記1536
(天文5)年尾上右京亮が10~20代と仮定すると、1585年に59~69歳ということになる。ところで、各項の背景から察するに尾上備前守氏綱は帰雲城の重臣であったとも考えられる>
「越前より猿楽共呼寄、領分の者共も内ヶ嶋へ揃い、明日能興行之前夜九ツ過、内ヶ嶋
の前大川有之候、その向うに高山御座候、しかもまたその後に帰り雲と申す高山御座候(略)右の帰り雲の峰二ツ三割れ、前の高山ならびに大川打ち越して内ヶ嶋を打埋め申し候、人一人も残らず内ヶ嶋之家断絶」『飛騨鑑(かがみ)』
1586年「天正13年11月29日亥子剋より大地震初而12月25日まで昼夜動申
候、其時飛州白河帰雲の在所両山打崩、則屋形内嶋兵庫頭氏理其外500人余、牛馬等まで一時に亡申候。彼所にても小白河丸山ミゾウレ、帰雲其外江州左保山、長浜、尾州河内、越州北ノ庄鶴賀、日本国中在々所々及滅亡処多」『白鳥町史』76頁に長滝経聞坊文書二「年代記録(抄)」所収
内嶋氏理、天正13(1586)年没 43歳
<1548~1586年まで内嶋氏理の代に、川尻備中守・山下大和守・尾上備前守氏綱を確認できる。氏理43歳、山下氏勝18歳>
1586(天正14)年、「山下時慶(ときよし)没。白川郷荻町城主、山下大和守時慶天正13年の帰雲城の地震から助かった数少ない内嶋一族。金森家の追補を逃れて白川郷芦倉(あしくら)村に隠れたとされ、その山中で死去」
内嶋氏の家臣で山下氏、川尻氏、尾上氏についての活躍時期の結果
内嶋為氏より先代―――為氏より先代は、内ヶ嶋氏の家臣として牧戸村の川尻備中がい
る。萩町には山下豊前が住むが荻町城ではない。新渕村に弓大将荒川右馬丞、越中五ヶ山に市村縫殿介の名がある。
①内嶋為氏と雅氏時代―――1460~1500年まで内嶋為氏、雅氏の家臣で確認でき
たのは、川尻備中守氏信である。
②雅氏時代―――1500~1539年まで内嶋雅氏の代に、山下大和守時慶・川尻備中
守氏信・尾上備前守氏綱が確認できる。
③氏利時代―――1539~1547年まで内嶋氏利の代は、家臣の主だった記録なし。
④氏理時代―――1548~1586年まで内嶋氏理の代に、川尻備中守・山下大和守・
尾上備前守氏綱が確認できる。
帰雲城主内嶋氏や、山下氏、川尻氏、尾上家の活躍時期について、系図や白川郷にあるお寺の過去帳から調査した資料等があると思って調べたが、見出すことは出来なかった。これら人物の素性の研究はこれからなのかもしれない。内嶋氏の活躍した年齢についても疑問が残る形となった。
内嶋為氏1420(応永27)年頃生まれる?~1500(明応9)年没
内嶋雅氏1443(嘉吉3)年以前に生まれる~1539(天文8)年没
内嶋氏利1503(文亀3)年以前に生まれる~ 1547(天文16)年没
内嶋氏理1543(天文12)年生まれ~天正13(1585)年没 43歳
山下時慶 白川郷荻町城主、山下大和守時慶1586(天正14)年没
山下氏勝1568(永禄11)年生まれ 白川郷荻町城主、山下大和守氏勝
川尻備中守氏信→勘平→勘四郎。川尻備中守氏信は代々備中を名のる故、生没不詳。
文献には、帰雲城主内嶋為氏→雅氏→氏理の3代として記してある。現在は、内嶋為氏
→雅氏→氏利→氏理の4代が通説で、錯誤している部分を3~4代に直してある。
2012 H24 12 20
帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書
白川郷の七人塚八人塚千人塚跡と古戦場跡と寺跡とその位置について(インターネット用)
帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会 会員研究報告書
帰雲城の調査をするなかで、白川郷(現在、白川村、高山市荘川町)の保木脇~牧戸間にある塚跡と古戦場跡と寺跡の伝承とその位置について調べてみた。
岐阜県大野郡白川村御母衣字上ヶ洞の八人塚
「上ヶ洞の八人塚 平家の落人たちは、遠く人里はなれた山奥を選んで、仮小屋を作りかくれ
住んでいました。はじめのうちは木の根・草の実で生計をたてていましたが、次第に開墾地を広め、数年足らずで百姓仕事がすっかり身につくようになりました。さて、源氏方では平家の人さがしに懸命で、どんな山奥へも家来を回して探策にきます。ここは白川郷の山奥で、御母衣の上ヶ洞というところです。仮小屋を建て百姓になりきっている平家の落人の通称、太郎兵衛一家と、与惣衛門一家と、平兵衛一家の3家で、それぞれ平和に暮らしを営んでいました。
ある日のこと、この山奥の仮小屋に、一人の小間物屋がやってきました。これは小間物売りに
見せかけた源氏の探策方なのです。最初に、太郎兵衛の家に入ってきて、しばらく小屋の中を迂散くさそうにみまわしていましたが、「荷物を少しの間置かして下さい。私はこの先に忘れ物をしたので、取りに行ってきますから・・・」といってでていきました。太郎兵衛の奥さんは、さすがに、侍の奥さんだけあって、源氏の探策方とみぬきました。きっと仲間を連れに行ったに違いない。今に多くの武士が押しかけてきて私たちを殺すに違いない。そこで奥さんは、毒薬をせんじて待ちかまえていました。やがて、8人の武士がどやどやと太郎兵衛の家に入りこんできました。太郎兵衛の奥さんは、慌てずゆっくりと、「まあ、お茶でも一杯飲んで下さい」と用意の毒薬を進めました。8人の武士たちは、この奥さんの落着いた様子に疑いを抱かず、お茶を飲んでしまいました。薬がきいて、武士たちは一人、やがて一人と、8人全部が横になって眠ってしまいました。そこへ、与惣衛門、平兵衛一家がびっくりして集まってきました。
一部始終を聞いて、太郎兵衛の奥さんの機転にみな感謝しました。8人の武士はいくら時間が
たっても目がさめず、翌朝、8人とも冷たくなって死んでいました。太郎兵衛たちは早速、大きな穴を掘って8人をそこにうめました。そしてその上に、大きな岩をおいて塚のようにしました。
爾来幾星霜を経た今日、「8人塚」といって大きな岩が残っています。」『白川郷の伝説と民話』 102頁 西野著 昭和47年4月発行
<現在、御母衣字上ヶ洞のO家跡から奥に約200m以内に八人塚があると思われる。上ヶ洞の八人塚の位置について、『新編白川村史下巻』134,464頁に八人塚、神社、地蔵の位置が記してある。上ヶ洞(上洞)に数年前までおばあさんが一人住んでいたが現在は誰も住んでいないと聞いた。「牧、K氏談: 御母衣上洞(あげほら)にOさんが住んでいた。上洞のOさんの正宗(まさむね)の刀2振りを鑑定士が来て、借りて行ってすり替えられた。御母衣の八人塚は上洞の家の近くで、神社と八人塚があり、この塚の石は正しく並んでいた、云われは知らない。木谷地区の神社裏だろうに塚があった。2011H230630聞取り調査より」>
白川村長瀬字秋町の七人塚跡
「七人塚 食するに鳥獣の肉を以てし、着るに毛皮を纒(まと)ひ、野獣にも近い原始生活を
してゐた民も追々と我等の先祖の壓迫(あつぱく)を受くる様になつて、彼等にとつては實(じつ)に平和な仙境も餘程變(かわ)つて來た。そして彼等アイヌ人の部落を襲つた吾々の先祖によつて、或は此村から追出され或は征服されてしまつた。現に本村長瀬區(く)小字秋町の田畑になつてゐる村の中央の地に昔から七人塚といひ小高く土を盛り其上に石もて墓やうのものを作つてある 之れアイヌ人七人を一緒に葬り、代々言ひ傳へて七人塚と稱(とな)へる様になつた。」
『飛騨の大白川郷』117頁 昭和9年8月発行
<秋町集落から南南東約300mの田畑の場所に七人塚があったようである。御母衣ダム水没前の秋町には、下屋家・秋良家・上屋家・田中家の4戸があった。秋町にあった白山神社の位置については、明治43(1910)年1/5万地図白山に記してある>
岐阜県高山市荘川町岩瀬の八人塚・千人塚跡
「八人塚・千人塚 岩瀬地区の集落のはずれ、東南の一角に、通称八人塚千人塚と呼んだ地域
があった。戦国の世に、領地争いのため幾度かこの地で一戦を交え、尊い人命を失った武士たちの遺骸を葬った場所を、人々はこうした呼び名をつけてその霊を慰めてやった。しかし、その後、心ない人たちがこの塚に目をつけ、遺品の発掘をこころみ、幾度か掘り返されているうちに塚跡もだんだんと影を潜め、地名だけがずっと残されていた。」『辛夷(こぶし)ふるさと回想 水没前の荘川村』43頁
荘川町岩瀬の八人塚・千人塚跡
「岩瀬地区内には、戦国の武将が命を落とした亡骸を埋めたとされる八人塚・千人塚が日照へ
行く山道の傍らにあった。」『往昔』43頁 田下昭夫著
<岩瀬地区の八人塚・千人塚のおおよその場所については、現在の岩瀬白山神社から北北西約400m辺りではないかと推測される。八人塚・千人塚跡の位置について、聞取りを実施したが塚の存在を知らないということだった。岩瀬の金生神社の位置について <明治43(1910)年1/5万地図白山に記してある>
荘川町岩瀬のブラ橋南、古戦場跡
ブラ橋南「古戦場跡 牧戸城主と帰雲城主が互いに領地争いをした。その一戦を交えた古戦場
跡がブラ橋くにある。もちろんこの辺りは長年月の間に地形がすっかり変わって跡らしいのは目につかない。中でも活躍した武将のひとりに、牧戸城の家臣、荒川右馬丞という弓取りの名人がいたそうだ。現在の荒川家はその末裔にあたる。」『辛夷ふるさと回想 水没前の荘川村』47頁 昭和53年集録完成
荘川町岩瀬字下滝のブラ橋南、古戦場跡
下滝ブラ橋近く「「なんかこの先に、古戦場があるって聞いたけど」、「あそこのうブラ橋の近くやけどすっかり荒れての、この下滝は室町時代は戦場の要だったようで、牧戸城主と白川の帰雲城主は、越前城主の金森長近との領地争いは壮絶だったようで、多くの武将に死傷者が出たが、なかなか落ちぬ城に長近は夜ひそかに牧戸城に火をつけ、9日目にようやく落城したとのことじゃ」、「そうですか、色々教えて下さいまして有り難うございました」、礼を言って改めてこの地域を見渡し、やがて廃道となる道をブラ橋に向かう。ブラ橋近くは樹木が生い茂って道路を覆いつくし、真昼とは思えぬ程に薄暗くひとりで歩くのは気味悪い。古戦場の形跡は見当たらず木々と雑草だけが山一面を埋めつくして庄川と野々俣川に挟まれた牧戸城へと続いている。」『よみがえる湖底の里7・7』71頁
<現在の荘川町岩瀬地区の国道156号線の舟橋谷橋から南西約200mの庄川という川にブ
ラ橋が架かっていました。ブラ橋西の南辺りが古戦場跡です。>
荘川町牛丸のそふ谷吊橋東から北にある古戦場跡
そふ谷吊橋東から、庄川沿いを北へ約100mの位置に、「W氏の母談:ここが古戦場だったと
聞いています。この場所に赤い花が咲く。2012H240718聞取り調査より」
荘川町岩瀬の旧光輪寺跡
「水谷(上?)川東北の林に周囲より一段高く土盛りした箇所があった。この付近に三田洞と
称する場所があって中野村光輪寺初代開祖=(浄法)の跡が残されていた。」
『往昔』43頁 田下昭夫著
岩瀬の旧光輪寺跡
「岩瀬光輪寺跡 中野村にあった光輪寺の開祖は、この岩瀬地区の東側の山中、三田洞と呼ば
れる洞の中田と呼んだ場所に、堂を建立して布教につとめたようである。草木をふみ分けて、その寺跡を探ると、土中に埋没しているが、石垣用に使った岩石を、点々と見つけることができた。」
『辛夷(こぶし)ふるさと回想 水没前の荘川村』44頁
<荘川町岩瀬地区にあった旧光輪寺跡は、おおよそとして、現在の岩瀬白山神社から北に約650m一帯か、岩瀬白山神社から北北東約700m一帯に岩瀬旧光輪寺跡があったのではないかと思います。荘川町岩瀬地区にあった旧光輪寺跡は、水上谷と矢箆原家から比較的近い場所にあったようです。三田洞は呼称であり小字名、孫字名でないため地図上からは位置を特定できません。この岩瀬光輪寺があった時代には、岩瀬道場であったようです。のちに中野村に移転して光輪寺となります>
2012 H24 12 09
2012 H24 04 09(月)、白川郷へ資料調べに向かった。AM7:20御母衣ダム、岩瀬橋にさ しかかるとダム湖水面が例年より一段と低いのが見てとれたので、ふともしかしたら照蓮 寺跡を拝めるかもしれないと思い、急きょ湖岸を歩くことを決めて荘川桜のある駐車場か ら、さらに北にある駐車場に車を止めた。7:43、長靴の用意もなく残雪が残る中駐車 場から湖岸に向かうと、いきなり、おやーレールが湖底に向かって延びているぞー。レー ル幅は約1.6~1.7mだ。鉄道用レール?・木材運搬用軌道?、何のレールだろうか。理解 できなかった。何より10何年御母衣ダム湖岸道路を走っていたが、今までレールの存在 すら見たことがなく気がつかなかった。 スニーカーは泥だらけになり、湖岸水面間近まできて北方を見て水面下にある「日崎城 跡」を推測した。ここから東を見て南北朝時代のものと思われる「山城跡」の尾根を眺め た。 湖岸には「旧白川街道」と思われる道筋が薄すらと残っており、街道脇を南へ歩いた。 果たして照蓮寺跡は現れているのだろうか。準備をせず、旧地図を持たずさ迷っている ので位置が判らない。 あと少しだけ南へ進むことにしよう。 右前方に、ふと大きな石が目に付いた。これだ!。さらに近づくと大きな石は約1.8m ほどの高さであることが分かった。さらに2ヶ所の物証跡を確認して、ここが「中野( 村)御坊照蓮寺跡」であることを確信した。 何よりもまずは手を合わせて「拝んだ」。「:帰雲城内ヶ嶋様、嘉念坊兼入(けんにゅ う、のちの明心)、明心(みょうしん)さま、ははあー」と拝んでから、仏敵である「: 帰雲城内ヶ嶋様」と拝んだのはまずかったと思ったが、いまさら遅い。 <飯島(村)正蓮寺は、1475年 文明7年(1488年説もあり)、帰雲城の城主、 内ヶ嶋氏と飯島正蓮寺の戦いがあり、正蓮寺が敗れ廃絶したという。 その後、本願寺の蓮如・実如らの仲介により内ヶ嶋氏と明心(みょうしん)が和睦して、 中野村に(正蓮寺の正の字を照に改め)照蓮寺が再建された。1501年(1504年と もあり)から1588年までの80年余り「中野御坊照蓮寺(心行坊)」が飛騨の真宗メ ッカとなったのである> 7~8年前から御母衣ダム渇水時の春に照蓮寺跡に立つことが、念願であったので、資 料調べに向かう途中、思わぬ偶然に照蓮寺跡に立てたことはすごくうれしく興奮した。 以前の「古老への聞取り調査」で聞いていた、照蓮寺跡東にあった、白川街道はここか ら「くの字に」曲がっているのを確認できた。聞き取りと現場が確証になったことはうれ しい限りである。なによりも御母衣ダムが完成する前の昭和30年ごろの地形に立った喜 びと感動は「ロマンをくすぐる」。 資料や旧地図を持たずにこの地に立っているが、覚えている限り地表を見ておこうと思 い、北へ歩き、照蓮寺跡の北にあった伝承にもある「牛の池」跡を探したが、湖岸地表は 侵食していて、確認できなかった。さらに北に歩き旧白川街道左に石の階段があるのを確 認した。(後日資料を調べたら、中野村一之宮神社跡の階段と思われる) さらに北へ進み、海上村と思われる場所を歩き、駐車場へ戻った。9:00 9:40、白川村で全資料等を調べた。先月より嘉念坊善俊(ぜんしゅん)の記録を調 べ始めたので、善俊の記述がある資料を読み込んだ。3:00 あと書き:今回、資料調べに向かう途中で、思いもせず照蓮寺跡に立つことができた。 帰雲城のみを調べてばかりおらず、嘉念坊善俊から、正蓮寺、照蓮寺の記録を調べ「史 実を明らかになさい」とお願いされたような気がした。 メモ書き:小笠原勢に、犬甘(いぬかい・旧市)と平瀬(島内)がいた。牛丸。内ヶ戸 (内ヶ嶋の住し場所か?)。照蓮寺の堀について 後日談:御母衣ダム湖底に向かって延びていたレールは、ダム湖へ船を上げ下ろしする ためのレールだと分かった。 資料を読み込むと、1475年 文明7年(1488年説もあり)飯島正蓮寺と内ヶ嶋 氏との戦いは単に宗教勢力と内ヶ嶋氏の争いではなく、地元豪族(人物名調査中)や、こ の頃急浮上してきた飯島正蓮寺の真意性を調査研究してひも解く必要性があるとわかった。
レポート提出日: 2012 H24 04 28