八十右衛門のレポート

研究会の仲間、八十右衛門さんのレポート集です。 岐阜県外唯一の会員なので違った視点から見た独自のレポートです。

 

2013.7/6 更新しました

2013.7/7 内容を一部、修正しました 

保木脇庄川左岸弓ヶ洞谷付近の尾根筋の散策調査 2013.7.6

       保木脇庄川左岸弓ヶ洞谷付近の尾根筋の散策調査

 

                           八十右衛門

 

去る6月8日、自分とひで氏は保木脇庄川左岸弓ヶ洞谷のやや北にある標高800m付近の傾斜の緩い尾根を散策調査してきた。 散策調査というと違和感があるかもしれないが調査と呼ぶにはおこがましかったので、やわらかいニュアンスを用いたくここでは散策調査とした。

 

ひで氏にここの調査をしようと言い出したのは自分からである。 昨年春ごろ、研究会で右岸の仮称:松尾砦?を調査しに庄川右岸の林道から弓ヶ洞を眺めた際、自分とkerigumo氏が保木脇(弓ヶ洞)に山城を築城できそうなポイントをいくつか探したのだがその中の有力地の一つにその800mあたりのこの尾根筋が浮かび上がったのだった。 古い絵図にある帰雲城と似たような位置にある場所であったため自分の中ではかなり期待がもてるのではないかと思い続けていた。 近いうちに見に行きたいと思っていたが、今回ようやく散策調査できる機会を得たわけである。

 

 

当日眠い目をこすりながら午前5時頃起床し準備をしたのち、6時ごろ自宅を出発。 途中地元のコンビニで飲み物やサンドウィッチなどを買い、ややのんびりとした朝のドライブを楽しみながら白川郷へと向かう。 天気は予報通り、朝から快晴で心が弾んだ。 白川郷へさしかかったのは7時をややまわった頃だった。 ひで氏とは8時に保木脇観音像前に落ち合う約束だから、まだまだ余裕があるだろうと思っていたのだが、保木脇に到着するとすでにひで氏の車はそこにあった。

 

 

まだ8時前だというのになんて早いと思ったが、そういう自分も昨晩は遠足に出かける子供のようにほとんど眠れなかった。 観音像前でコンビニのサンドウィッチを食べ、登山準備の身支度をすませる。 用意ができたところで、8時15分ごろ観音像から少し離れた保木脇白川衛生センター前に自分たちは車を停めた。 この時持参したアナログ高度計は高度約600mを示す。 あとでわかったことだがアナログ高度計は気圧計によるものなのでその都度微調整が必要ということでこの時点で誤差は20m~30mあったのではないかと思う。 自分はひで氏の車に相乗りし弓ケ洞谷北林道へ入った。

 

 

久々の林道だが以前来たときより道がきれいに整備されていて驚いた。 途中までではあるが舗装されていて道幅もかなり広くなっている。 林道をそのまま上がり8時20分ごろ高圧送電線の第58鉄塔そばの堰堤の近くにひで氏は車を停め我々は林道を歩いた。 本当は尾根のすぐそばに車をつけたかったが、車を置けるスペースがないかもしれないとのことでやむなく離れた場所からの登山となった。

 

 

林道は勾配は緩いものの普段運動不足の自分たちにとってきついものとなる。 6月とは思えない強い日差しと湿度のせいか、朝から息が上がる。 二人とも体力のなさを嘆きながら林道を歩く。 ひで氏があらかじめ用意した保木脇のコピーを片手に尾根筋を探すがなかなか見つからない。

 

ようやく尾根に近そうな場所にたどりつき林道から山を登る。 山は手入れされていて、木の切り株があちこちにあり最近伐採された木がいくつも転がっていた。 林道入口付近は落葉?などで腐葉土化していて歩きやすく傾斜もなだらかだったが、すぐに傾斜はきつくなった。 35度ぐらいの斜度ではなかっただろうか。 地図上の等高線を見る限り、そんなきつそうには思えなかったのだが自分たちの考えが甘かったかもしれない。 ただ、以前登ったことのある同じ庄川左岸シッタカ谷の北側斜面(砂地状)よりは登りやすかった。

 

 

ハァハァと息を吐きながら、斜めに生えている木々につかまりやっとの思いでよじ登っていく。 途中何度か水分補給をしながらではあったが、相当きつかった。 明るかったひで氏の顔にも、苦しい表情が見てとれた。 歩いている間もずっとしゃべりっぱなしのひで氏だったから多少疲れたのかもしれない。 このつらい崖?を『心臓破りの丘』と勝手に呼びながら歩いていると、頭上に平坦な尾根筋らしきものが見えてきた。 思わず声をあげ、後方にいるひで氏にも合図を送る。

 

 

8時55分ごろようやく我々が目指していた尾根の始まりに到達した。 しばらく尾根伝いに歩いてみるが、先ほどの崖とは打って変わり平坦な尾根が続く。 尾根の両端は切り立った崖のようになっていて西側は弓ヶ洞の谷川がすぐ下に見えた。 登って気付いたのだがこの尾根は、どうやら保木脇地区と平瀬地区の境界線になっているようで所々に小さな赤い標識?などが設置されていた。

 

 

尾根は次第に広くなり一番広いところでは、幅が15m~16mほどあったように思う。 ちょっとした公園を作れそうなくらいの広さだった。 疲れ切ったひで氏の顔にも若干の安堵感が見える。

 

 

携帯電話のGPSを作動させ地図を見て現在地を確認すると、知らない間に尾根のかなり奥まで来ていたようだった。 どうやらここが我々が右岸から見ていて怪しいと思った場所のようだった。

 

ここなら城を作ってもおかしくないかもと思ったが、残念ながら石を積んだ跡や、堀切や土塁などのような跡は見られなかった。 尾根の始まりからこの広場までは若干高度計の誤差はあるものの標高800m~820mだった。 国道からの標高差も約200mであり山城築城ポイントとしてはいい場所だと感じたのだが残念である。 地図を見るとこの先の尾根はまただんだん険しくなると予想されたのでこの広場の散策を最後にして山を下りることにした。

 

 

9時20分頃、このあとの赤谷城(仮称)散策で合流予定のkaerigumo氏に朝一番の探索結果をメールで報告する。 かなりの期待をもって登った尾根ではあったが、城郭があった可能性はほとんどゼロに近いと思った。 場所的にはビンゴだと思ったのだが、くやしさのあまり自分は心の中で勝手に『すばらしき尾根』と名付けた。(徳川埋蔵金発掘の糸井重里氏を真似て) 

 

 

下山は比較的楽ではあったものの、例の『心臓破りの丘』の斜面では転げ落ちるように下りていく二人。 ここでひで氏何を思ったか熊よけのホイッスルを思い切り吹き鳴らす。 びっくりしたので何かあったのかと尋ねると熊か何かがいたのだという。 飛び跳ねたというのでカモシカだったのかもとのことだった。

 

二人とも熊よけ対策として鈴は鳴らし続けていたのに、あまり効果がないのではないかと思った。 下山途中、堂の上の少し上あたりで小高い丘?を見つけたので途中脇道へそれてみると旧弓が洞の谷川筋に浸食された跡だった。 谷川筋の跡は二本あり、ひで氏によれば4番目と5番目の跡なのだという。

 

 

また下山しながら右岸の帰雲山の崩落面を見た際に、考えたのはあの崩落した土砂が弓ヶ洞に向かってくるとは無理な感じに思えた。 角度的にいって土砂堆積地(帰雲城下および館跡)は観音様像~白山神社(内ヶ嶋神社)のあたりが一番妥当なのではと思った。 引き続き保木脇を調査したい衝動にかられたが、このあと赤谷城、新淵城、牧戸城、阿千葉城、東氏庭園見学とスケジュールが目白押しであり10時を若干まわったころ保木脇を後にした。

 

 

今回、散策調査の反省としてはもう少し時間に余裕をもった行動計画を立てることが必要だと感じた。 前回の小白川砦見学の反省を踏まえ方位磁針やスケールを持参したもののほとんど活用できなかった点も反省材料の一つである。 また山中において自分たちの位置確認をしっかり行う必要があるように感じた。

 

 

あと写真についてであるが、カメラで山中を撮ってもスケール感があまりわからないと感じた。 これも今後工夫する必要があるだろう。 また、近いうちに保木脇の他のポイントも視野に入れ散策していきたい。 そう思った今回の散策調査であった。 追伸:レポート作成にあたりデータを提供していただいたひで氏に感謝いたします。

 

 

2013.7.2自宅にて

 

予想外に広かった尾根
現地の図面
およそこの辺りを調査した

小白川砦跡とされる遺構の簡単な確認調査について

 

 小白川砦跡とされる遺構の簡単な確認調査について

 

                                  八十右衛門

 

2012428日(土)かねてより帰雲城関連の遺構ではないかと噂されている『小白川砦跡』と称されるものの簡単な確認(視認)をしてきた。

 

今回自分自身、単独での遺構調査は初めてなので力不足の感があり、しっかりした調査ではないことを先にお断りしておく。

また家事都合により午前中のみの調査となり、取材時間も取れなかったので数枚の写真のみの報告となるがご容赦願いたい。

 

さて、28日(土)近県の某温泉旅館を出発したのが820分ごろ。

それから山道を車で走ること1時間20分。

自分は世界遺産白川郷・荻町合掌集落に程近い、岐阜県大野郡白川村小白川のある集落に940分ごろ到着した。

近くには『飯美館よしね』という旅館もある。

ここは小白川と呼ばれる集落と呼んで良いのだろうか?

とりあえず小白川集落としておく。

 

飯美館から旧道を数メートル北へ向かった左奥に『小白川砦跡』への入口がある。

旧道沿いのこの入口近くに車を停めた。

入口には番所跡と書かれた木の標識のようなものがあったので、初めてここを訪れるならばこの木の標識を探すと良いだろう。

『小白川砦跡』はこの入口より数十メートル?山道を登ったところにある小高い山の上にある。

この出発点の入口自体が海抜数百メートルの山中なので山と呼んでいいかどうかわからないがとりあえず砦跡は小高い山の頂にあるとのこと。

 

標識の脇には水路がある。

工業製品によく使われるコルゲートチューブを下水管並みにしたような大きな塩ビの黒い筒が、山から流れ出る水を山の急勾配の斜面よりその水路へと供給している。

白川郷埋没帰雲城調査会からの情報によるとその下水管みたいな管に沿って斜面を登っていくと小白川砦跡の遺構に着くのだという。

情報によると30分ほどですぐ着くとのことで簡単に思っていたが、意外と急斜面で、少々体力を要した。

ただ山菜取りの道なのか傾斜はキツイが人の通った道がきれいに出来ているので、比較的初心者の方でも登りやすいのではないかと思う。

 

また近くに民家があるとはいうものの『熊』の出没も警戒しなくてはいけないので熊よけ用の鈴(カウベル)も用意していたのだが、10分ほど登ったところで大きなカモシカと突然遭遇した。

シカは、急斜面で野草を黙々と食べていて自分に気づくのが遅れたようでかなり慌てていた。

自分より50メートルほどの高台にいたカモシカは足早に急斜面を登っていった。

鈴では熊よけにはならないのではないだろうかと不安がよぎる。

今度からは携帯ラジオで大きな音を鳴らさないといけないなと思った。

 

意外なハプニングに少々驚いたが気を取り直し、引き続き目的地である『小白川砦跡』を目指す。

出発から15分ぐらい経っただろうか、目印の送電線中継用の大きな鉄塔が見えてきた。

鉄塔の手前には大きな堀切?のような窪みというか段差がある。

そこには地元の人が置いたのか電力会社の人が置いたのか『打越峠』と書かれたプラカードが無造作に置かれている。

そこからすぐ南の尾根上に大きな鉄塔が建っているのが見えた。

すぐ鉄塔に向かったが少し光景が情報とは違うように感じた。

 

実は『小白川砦跡』には大きな送電線用の大きな鉄塔が一つ建っているのだという。

しかし目にした光景は二つも鉄塔が建っていて、鉄塔用の基礎のためか石垣までこしらえてある。(確か石垣は確認されていないはず)

以前白川郷埋没帰雲城調査会で見せていただいた写真には土塁らしきものも写っていたのにそれも見当たらない。

ここまでの所要時間も30分もかからず、15分ほどで到着した。

 

ひょっとしたら『小白川砦跡』は、もう少しずれた場所にあるのではないか?

そう思いすぐさま、携帯電話のGPSを作動させ近くの鉄塔を探す。

その二つある鉄塔から尾根づたいに北へ200メートルほど向かったところに、もう一つ鉄塔があることに気づいた。

間違いない、きっとそこが砦跡なのだ。

そう思い先ほどの『打越峠』から今度は北へ伸びている尾根を伝って鉄塔へ向かう。

尾根もまた山菜採りの道なのか人が踏みしめたような綺麗な道になっている。

 

高鳴る胸を抑えて、尾根に沿って北へ向かうと、以前見た『小白川砦跡』の写真と瓜二つの光景に出くわした。

ちょっとした感動を味わったが、砦跡には残念ながら現代文明の鉄塔がピッタシのサイズで建っている。(電力会社が遺構を無視して建てたのだろうか?まぁ、高度経済成長期にはよくある話だ)

砦跡は、建造物があったであろう平坦な部分(鉄塔が建っている部分)が目測でおよそ3メートル四方の枡形というか正方形となっている。

本当に、まるで後世鉄塔を建ててくれと言わんばかりのジャストフィットな砦跡なのである。

その前後(南北)は高さ1メートルほどの土塁?のような土壁が形成されている

土塁の外側には申し訳程度の堀切?のような窪みも見てとれる。

客観的に見て、かつて人の手がここに加えられたであろうということは容易に想像できる。

中世の城というものをあまり見学したことのない自分にとっては、確かな目を持ってこの遺構を評価することは難しく、専門家の方が見れば紛れもなく砦跡であると断言するかもしれない。

 

しかし、この立地条件で果たして砦と呼べるほどの機能を果たせていたのかどうか若干疑問が残る。

砦というのは自分の中では城の小型版のようなイメージなのだが、この狭い省スペースで一体何人が立て篭れたというのだろうか?

土塁にしても想像していたものよりチャチな感じが否めない。

飲み水の確保も難しそうだし、ここで討ち死にしてくれと言わんばかりの粗末な感じがする。

中世の砦、城とはこんなものだといってしまえばそれまでなのだろうが、自分の感じでは見張り台があったのでは?と解釈したほうが良いのではないかと思った。

 

今回、こういった遺構跡を写真や書物で情報を得るよりも、こうやって自分の足で現地におもむき目で見て触れて確認するといった作業が、どれほど大事か知ることができた。

これは大きな収穫だったと思う。

 

今後も、実際に自分の目で見て確認して当時を想像していくという作業を続けていきたいと思う。

他に、反省点としてデジカメの設定ミスがあったので次回から気をつけようと思う。

また今度こういった遺構調査の時は最低限スケールと方位磁針も用意しようと思う。

 

                         517日 自宅にて執筆