この項では帰雲城という現在では遺構も痕跡も何もない城に真っ向から勝負を挑み帰雲城はどこにあったのか?や帰雲城はどんなタイプの城だったのかに迫ります。
◇帰雲城があったとされる保木脇には富山湾へ注ぎ込む庄川が流れており、富山湾に向かって庄川の右岸にあったのか? それとも左岸にあったのか? さらに追求していくと左岸なら国道156号線の上なのか? または下なのか? 右岸だとしたら現在の帰雲山のどの辺り、中腹なのか?それとも別の小山にあったのか?などなど、これまでにも多く議論されてきていますが未だ、その結論は出ていません。
しかしながら帰雲城の場所は少なくとも天正大地震によって崩れた土砂で埋まってしまったおよそ1km四方のどこかであることは確実とされています。
そこで帰雲城のあったであろう候補地を挙げ、実際に推理しながら検証していこうというのがこの”帰雲城の謎に迫る”です。
実を言いますと天正大地震当時の帰雲城のことが書かれた史料の中には「帰雲城」と書かれた文献はありません。(多分) 文献にも色々なものがありますが、帰雲の城郭とか保木脇の城、白川(河)の屋形など、こうして見ると地名(字名)と建物がセットに成った表現が多いことに気が付きます。 なぜ、帰雲城、ではなく上記のような表現になっているのか? または、そう表現するしかなかったのか? このような疑問も生まれてきます。
帰雲城を築城したのは内ヶ嶋氏初代城主「内ヶ嶋為氏(ためうじ)」さんです。
築城年は1465年あたりだとされています。 牧戸城に本拠を構えて約5年・・・白川郷をほぼ手中に収めたであろう内ヶ嶋家は新たな本拠地帰雲城を築城するわけですが、帰雲城を何故? 保木脇という一見、築城するには適地とは思われないような場所に築いたのか? これまた疑問が浮かんできます。
また、保木脇という場所に帰雲城が築城されたのなら、果たして帰雲城とはどのような形式のお城だったのか? さらには文献にもある屋形上下という記述においては、帰雲城が二段構えになっていたから上下屋形なのか? それとも屋形と詰めの城がセットになっていることから屋形上下と呼ばれたのか?
この「屋形上下」という表現で文章にしたのは、内ヶ嶋氏とは近い、郡上の遠藤氏の文献によるもので、おそらく遠藤家には帰雲城(屋形)がどのようなものであったか? 知っていたと思われます。 つまり、京都にいて伝聞を耳にしながら書き残した日記よりも信ぴょう性が高いのではないか? と私は推理しています。
内ヶ嶋氏が築いた城と言うと、、、
帰雲城の他、牧戸(まきど)城と荻町(おぎまち)城がどちらかと言えば名の知れたお城です。
「牧戸城」は現在の高山市荘川町にあって出会いの森という公園?の一角にあります。
この牧戸という場所は大変重要な所でして、北へ向かえば帰雲城や荻町城もっと進めば越中ですし、東に向かえば高山に西に進むと郡上から越前へ向かういわゆる交通の要衝ってやつです。
内ヶ嶋氏にとってここを潰されると非常に厳しくなる重要拠点であったと思われます。
牧戸城のある高山市荘川町牧戸です。
牧戸城はちょうどマップの中央、荘川町牧戸と書かれた所の荘の字の下辺りになります。
黄色い線の交わる三叉路は現在「牧戸」の交差点で左下に向かう黄色い線が郡上へ左上に向かう線が帰雲城へ、真下に向かう線は高山に向かっています。国道脇には庄川も流れており、この地がいかに重要かがわかります。
もう一つ、北の押さえに重要な役割を果たしたのがこの「荻町城」です。
(荻町城の鳥瞰図は余湖くんのホームページからお借りしています)
荻町城というと、そうです、、、観光客の皆さんが荻町合掌集落を見る時に必ずといっていいほど登るであろう、あの荻町展望台がズバリ!荻町城跡です。
つまり、観光客の皆さんは知らず知らずのうちに荻町城から上のような写真を撮影しているわけです。
この荻町も重要な拠点で南は帰雲城と牧戸城でがありますが北側は越中国境が近く、ここが落とされると本城の帰雲城が大ピンチ・・・。
東側には紅葉と湿原で有名な「天生(あもう)峠」を経て飛騨古川へ出ることができます。
荻町城周辺のマップです。
マップ中央やや右にズバリ、荻町城跡が見えます。
荻町城展望台から見る定番の合掌集落写真はここから南を向いて撮影します。
黄色い線が交わる城山館という旅館の所から右方向に国道360号線があってこのまま進むと天生峠を超えて古川町へ、左上方向が越中方面になります。
トップページにある「ある研究者の執念」のある研究者とは、実はこの城山館の亡くなった旅館主の松古(まつふる)孝三さん、その人です。この方の存在がなければ帰雲城も内ヶ嶋氏も日の目をみることが無かったか、あるいはもっと遅れていたのは間違いがありません。
そして内ヶ嶋氏の本城、帰雲城ですが牧戸城と荻町城に守られた鉄壁の城・・・
かと云えばそうでも無かった形跡があります。
意外にあっさりと奪われてしまった過去もあって果たして要害であったかどうか?
私にもわかりません。
この時代の山城の特徴としては、、、
山頂に詰めの城(有事の時、籠城して戦う拠点)があって麓には館(主に城主が住む)というのが定番となっていました。
実際、飛騨地方においても「江馬(えま)氏」の場合には神岡町にある高原諏訪城と江馬館、「鷲見(すみ)氏」という郡上は高鷲町にある鷲見城とその館、同じく郡上の大和町には関東の千葉氏の流れをくむ「東氏(とうし)」が築いた篠脇城と東氏館などが残っています。
この三カ所にさらに共通するのが「庭園」です。
普段の居住する館には規模の大小はあっても庭園付きだったということです。
ですから、帰雲城の屋形にはひょっとしたら風流な?庭園があったかもしれないし、なかったかもしれない・・・
でも、あったとしてもおかしいとは言い切れません。
そんな訳で、本題になっている「帰雲城の謎」について本格的に迫っていこうと思います。
→続いて帰雲城はどこに?へお進み下さい。