このページでは新・帰雲城と内ヶ嶋氏の謎を読まれた感想や帰雲城・内ヶ嶋氏に関する質問や情報などお待ちしております。 また、このHPに対しての感想等もお待ちしております。
赤影 (土曜日, 28 12月 2024 06:40)
ゆうやさん、コメントありがとうございます。 帰雲城に興味を持たれる方が増えてうれしい限りです。 発掘調査に関して私はコアな情報を持っているわけではありませんが 例のTV愛知の番組、、、掘削に協力した人物は私のかつての仲間です。 2027年に再度、掘削するとすればおそらくまた彼らとTV愛知になるでしょうが 3年後のことなので行われるかもしれないし、行われないかもしれない、 としか現時点では言えません。 彼は気合い十分だと思いますが何しろこの期時世、穴を掘るにも以前とは 比較にならないほど予算が必要ですし、行われればラッキーくらいに 考えておいたほうが良いかもしれません。 私自身は遺構が見つかるとか金塊を探すとかには興味がなく 普通に歴史に特に戦国史やお城が好きで研究をしています。 一方で彼ら(調査会)は城の遺構や金塊が本命ですのでそれが決定打になって 袂を別れることになりました。 仮に見つかってしまうとこれまでの謎やミステリーが消えてしまうので このままの方が良いと考えています。 もし、遺構探しに興味がおありでしたら調査会に入会されてみては いかがでしょうか。(現在はホンの数名での活動ですが・・・)
ゆうや (水曜日, 25 12月 2024 14:55)
初めまして。 最近になり帰雲城について興味を持ち過去に行われたテレビ愛知主導の発掘調査の動画等を見返しているのですが、これとは別に2027年に試験的な発掘調査を予定しているという情報を他サイトで見かけたのですが、これは実際に予定されていることなのでしょうか?
赤影 (金曜日, 18 10月 2024 08:17)
山田さんへ 地震直後、実際には両岸の山が崩れ両方の土砂が庄川に達して土砂ダムができたのは事実です。 この土砂ダムは約二十日間で決壊したようです。その間、水流が断たれた富山側ではたくさんの魚が獲れたという話も残っています。 赤色立体図で崩れた周辺を何度か見てみましたが、やはり地震前の地形とは随分変わってしまっているんだなと思った次第です。 ただこの赤色立体図、関ヶ原の合戦時、今まで存在すら言われてこなかった玉城なる城を炙り出したと聞いています。 妄想したり、当時の状況を想像したりすることは楽しいです。 似たような時代の城にも行きましたし図書館通いもしましたし正直、あの頃が一番面白かったと思っています。 まだまだ謎は多いですよ、帰雲城。。。
山田 (木曜日, 17 10月 2024 19:33)
ご返答ありがとうございます。 もうお調べになっていたとは。やはりあの地形は自然地形ということなのでしょうね。 陰影起伏図のツールで調べて周りより3~4M高く台地状なっていて、1辺が100m近い直線基調の四角形でこれはまさしく!と思ったのですが、やはり素人考えでした。 更に丁度あの地形横の山に崩れた後があったので、帰雲城を飲み込んだ土砂崩れはその山のもので、帰雲山の大崩れが別に自然ダムを作り出し、水の中に没した、みたいな妄想をしてしまいました。 ただ色々と想像を重ねることがとても楽しく思えるので、資料などぜひ活用させていただきたいと思います。ありがとうございました。
赤影 (火曜日, 15 10月 2024 23:40)
山田さんはじめまして。 コメントをくださりありがとうございます。 結論から申し上げるとその辺りには昭和の炭焼き小屋がいくつか残っております。 我々も数回調査に入りました時同じことを想像したりもしましたが根本的に帰雲山は天正大地震以降も数回崩れた記録があってやはりその直下はもはや当時の地形が残っていないと言うのが我々の見解です。 ただし、あくまでも我々の見解で絶対ではありませんので山田さんが想像を膨らませ意外な展開を推理するのもありだと思います。 一応、史料の部屋というコーナーにダウンロード可能なものもあるので使えそうだと思えば自由にお使いください。 ここだけの話ですが埋没帰雲城調査会なる団体があって(今はもう活動していません)この団体は帰雲城山のある庄川右岸ではなく左岸ばかりを調査し掘削調査も過去には試みておりますがめぼしい結果は何も出ていません。したがって右岸(木谷地区)はあまり調査してこなかったのです。 確かに状況証拠でいけば保木脇が有力で過去の天正地震時の公家の日記などをみても保木脇の、、、が多いです。ですが可能性がゼロではないので頑張って調べてみて下さい。お役に立てることがあればまたお声掛けください。
山田 (火曜日, 15 10月 2024 19:16)
初めまして。 つい最近、帰雲城の話を知り、このホームページの研究レポートや興味本位で現地に見に行ったり地図を開いたりして楽しんでおりました。 国土地理院の陰影起伏図を見ていたところ、保木脇の庄川をはさんで東岸に、奇妙な起伏がありました。現在は森の中のようで現地に行ったときはどういったものなのか観ることはできなかったのですが、直線基調で四角に区切られていて、まるで城跡のようでした。これはなんであるのか?自然にできた地形なのか?ぜひご意見をお聞きしたいと思い、ご質問させていただきました。 https://maps.gsi.go.jp/#17/36.206767/136.897164/&base=std&ls=std%7Chillshademap&blend=0&disp=11&lcd=hillshademap&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s1m0f2&vs2=f2&sync=1&base2=std&ls2=std%7Cd1-no461&blend2=0&disp2=11&lcd2=d1-no461
管理人 (月曜日, 07 12月 2015 14:11)
ソレックスさん、 コメントをありがとうございます。 城址なんですけどね、 やはり、いろんな説があり色んな意見もあり どうしても一箇所、ここ! と言えるだけの説得力のある説がないのが現状です。 どの説にも一長一短があり、文献の解釈によっても 変わってしまうような状況です。 おっしゃるように現在の帰雲城の碑の立っている場所も 有力な候補には間違いありませんし そこよりもやや上にある送電線の鉄塔付近もかなり 有力な候補ではあります。 かといって崩落後の残る帰雲山の麓はないか? といえば、そうとも言い切れず、未だに右岸説も 頑張っています。 それはさておき、、 教育委員会ですよね。 動こうにも村の予算を使って、出るかどうかわからない 城の遺構を探すにも村民の理解を得られる可能性が 少ないことや、仮に見つかってもどう保存するのか? どんな城なのかもわからないのに復元ができるのか? 様々な理由が考えられるのと、現在白川村は荻町の合掌集落で 手一杯な状況ですので、まず近未来に帰雲城発掘に向かう ことはないと思っています。 とりあえず、好きな人に調査させておいて何かが出たら 後を引き継ぐ形がベターなんじゃないかと思いますけどね。
ソレックス (日曜日, 06 12月 2015 21:00)
初めまして、ソレックスと言います。そこそこ歴史は好きで、一夜にして消えた帰雲城も有名な話で、たまたまココにお邪魔しました。前のHPも伺ってます。 色々説も拝見して頭がゴチャゴチャしてますw で、単純にグーグルマップの空中写真を見ると、帰雲山の崩壊は目立ちますよね。 で、元々地形的に沢に成ってる様で、地震崩壊前も扇状地だったと思います。山の崩壊で、酷く盛り上がっている所がまあ不自然で、この下に埋まってるのでは?と、単純に考えてしまいますよね。 あと、対岸にもあったかも?と言う事ですが、弓ヶ洞谷も随分長い沢で、やはり川岸は扇状地だったでしょう。ただ、ココも不自然に盛り上がっていて、地震の影響で崩落したんでしょうね。川から500mほど、山が丸く崩落した跡があります。 その山の南側、帰雲商事の裏も細かい沢が見えますが、崩落したんでしょうね。 帰雲商事から北、ぐるりと川が丸く蛇行したのは崩落した土のせいに思えます。 こうなると、石碑がある所が、やはり城跡なのか?と思えてきますね。 しかし、大々的に教育委員会が動かないのは、これという資料が、確証が得られないからですかね? 埋蔵金の話で有名になった所ですが、マスコミもあまり話題にしないし。 ロマンで片付けるのもモヤモヤしますし。 また、色々話が進むのを楽しみにしています!
管理人 (木曜日, 23 7月 2015 08:49)
つくもなすさん、 山下家が内ヶ島一族であるかも? ということは、重臣ですし長い付き合いの中、婚姻関係があったであろう ことは容易に想像できますし、一族の結束を高めるにはやはり婚姻が 重要であったのではないかと思います。 その証拠がどこにあるのか? 系図を辿って探すしかないのかなぁ、とは私も考えています。 ただ、現時点ではその証拠は私にはありません。 木を切り倒した、 との逸話ですが、ここに書かれています。 http://hidasaihakken.hida-ch.com/e409549.html どちらかというと悪い噂の多い、氏理なので行ってきたことで 厳しいことが全て地震の祟りみたいに言われてるのかな? とも思います。 白川、荘川の両村史を見ましても荘川村史の方でよりきつい 描かれ方をされているのではないかと。 私も一見、関係のなさそうな広瀬氏との関わりが出てきたので なりほどなぁ、と思っています。
つくもなす (木曜日, 23 7月 2015 00:11)
速やかな返信並びにアドバイス有り難う御座います。ひでさんの研究結果は以前興味深く読ませて頂きました。系図の画像は見たことがなかったので驚きです。「飛騨人物辞典」の237ページに「山下時慶(氏勝の父)は内島一族の数少ない生き残り」との記述があり、これは本当か?と疑問に思ったので質問させて頂いた次第です。 とりあえず判明したことはWikipediaの内ヶ島氏の家臣の項目に書いておきました。 それと、内ヶ島氏理の逸話で、「氏理が神聖な大木を切り倒したが故に神罰により滅亡した」みたいな逸話を以前見かけたのですが、ご存知ないでしょうか?
管理人 (水曜日, 22 7月 2015 17:06)
Tsukumonasuさん、、 質問をお寄せ下さりありがとうございます。 山下家が内ヶ島の血を引いているのか? というご質問ですが、系図を調べられた方がいます。 私の方にはその史料がありませんので系図から血縁関係があるのか どうか?は分かりかねますが、それに近い史料といては、 当研究会の会員である、ひでさんの調べた内ヶ島氏の三家臣について がありますので、まずはそれを読んでいただき、、、 「帰雲城内嶋三家臣の活躍時期について」です。 http://kaerigumo.jimdo.com/%E5%B8%B0%E9%9B%B2-%E5%86%85%E3%83%B6%E5%B6%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/%E4%BC%9A%E5%93%A1%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%81%B2%E3%81%A7/ 系図に関しましては、こちらのサイトを見ていただけたらと思います。 「飛騨の歴史再発見」の中の http://hidasaihakken.hida-ch.com/e409549.html と http://hidasaihakken.hida-ch.com/e406856.html になります。
Tsukumonasu (水曜日, 22 7月 2015 16:23)
家臣の山下氏勝は生き残りましたよね。山下氏は為氏の代からの譜代ですが内ヶ島の血は引いているのでしょうか?山下氏勝の末裔は現在2系統あるそうです。
kaerigumo (水曜日, 13 5月 2015 21:18)
天さん、こんばんは。 浄念寺さんですよね。 実はまだ、お訪ねしておりません。 HP上にはまだ載せておりませんが、いつぞや新聞紙上にて 天正地震における寺宝を含めた伝説やその経緯について ページが割かれていたのを拝見しました。 そんなこともあって、現在まで足が向いてはいませんが 本来の目的は当時、金森軍が飛騨攻めのおり、どういう進路で 白川郷まで向かって行ったのか? その事実を解明したいと考えています。 しかしながら現在は旧荘川村、御母衣ダム建設によって 水没した地域においても同様の疑問があり、そちらを今は 重点を置いて調査中です。 もし、いい情報がありましたら教えてくださるとありがたいです。
天 (水曜日, 13 5月 2015 19:04)
浄念寺は調べましたか?
kaerigumo (火曜日, 07 4月 2015 23:00)
とまとaMBkさん、こんばんは。 コメントをありがとうございました。 福島步危、平瀬步危について調べたのですか? それはすごいですね。 実は步危を実際に歩く、トラックが通る、、、」 そんな写真も見せていただいたことがありますが 崖の上からワイヤーなのかロープなのかは わかりませんが、吊橋のような感じで橋が崖に 張り付いている感じでした。 これが当時の道路として機能していたわけですから 正直、恐ろしい気がしました。 当時は子供の通学にも事故が多かった、、、 との話も聞かせていただきました。 御母衣ダムの湖底、、、 水没前の当時の写真、ですがHPにはいくつかは載せていますが 全てではないんです。 まだまだいっぱいあります。 運良く、この地域に住んでいて教員をされていた方が 私の実家の町内に越してこられ、子供も私と同級生だった という縁で当時の貴重な資料を拝見できる機会がありました。 写真類は全てを借り受けて写真に撮り直したり フィルムスキャナで取り込んだりしてかなりの 写真はデータ化することができました。 今後も少しずつ文章と一緒に写真もアップして いきますので、よろしければ気長に見てやって いただけたらな、と思います。 よろしければ、写真や絵図等、ダウンロードして いただいても結構ですので、使ってやってください。 帰雲城はですね、、、 おっしゃる通りの状況でして。。。 しかし、そのおかげかどうかわかりませんが 御母衣ダムにも興味が湧いたという怪我の功名とでも 言いましょうか、元はと言えば照蓮寺というお寺が あり、そこにあった桜の木が現在の荘川桜だったことも 大きな理由ですね。
とまとaMBk (火曜日, 07 4月 2015 17:16)
富山県在住で、庄川は故郷の川でした。小学校の遠足は小牧ダムでした。1972年(昭和47年)、国道156号(旧道)を車で南下したときに、初めて庄川の上流の姿を見ました。 福島歩危や平瀬歩危を調べているうちに、御母衣湖の湖底に沈む前の地形を見たい、村を見たいと思うようになり、こちらのサイトにたどり着きました。貴重な写真や、古い絵図など、見飽きることがありません。 水没した村を地図や絵図で再現なさるご予定とか。聞き取り調査をなさっている由、大変でしょうが、楽しみにしています。 帰雲城の方は、文字通り、雲をつかむようですが・・・
kaerigumo (土曜日, 10 1月 2015 21:10)
Tsukumonasuさん、こんばんは。 伊賀のご出身ですか? 私はJRを岐阜から乗り継いて伊賀まで行ったことがあるんですが 加太、あたりから見える景色はなんというか、、、 秘密の隠れ里のような何か違う空気を感じた記憶があります。 表現がしにくいのですが、違う空間に来たみたいな雰囲気を 感じたことを覚えています。 おそらく伊賀も小さな豪族の集合体が一つの勢力に なっていたでしょうから分散すれば、現在もその子孫の方々は 間違いなくご健在でしょうね。 しかし内ヶ島氏の場合は、ほぼ天正大地震で全滅、 してしまったので、子孫といってもどこまでが本当の子孫、 と言えるのかどうか? そもそも出自ですら最低でも三つのご先祖様に ぶつかってしまいます。 これらの最初が違うと後の子孫も全てが変わってしまう という状況でして。。。 これがわかれば、研究もぐっと進展するのですが。
Tsukumonasu (土曜日, 10 1月 2015 11:52)
返信有難うございます。! ん~。やはり確実な子孫は確認できないのですね。。。 私は伊賀の出身なのですが、各集落に一軒は必ず豪族の子孫が居ます。文献上には信長に滅ぼされたとなっていても、城館に今なお住んでいたりするので、内ヶ島氏も傍系の子孫が居たとしてもおかしくないかもですね。
kaerigumo (金曜日, 09 1月 2015 08:14)
Tsukumonasu さん、おはようございます。 内ヶ島氏の子孫の方々、、、 経聞坊も含めて弟二人がかろうじて 生き残ったというのが歴史では伝わっていますが 何しろ、家系図らしきものが残っていない というのが実情です。 郡上八幡から砺波、高岡にかけての地域に 内ヶ島姓の方が結構いらっしゃるのも事実 ですが、共通するのは昔からの伝聞はあっても 詳しいことは何もわからない、というのが 現実のようです。 高山市に子孫の開基したといわれるお寺も あるのですが、住職に言わせると宝物があったものの ある時、無くなってしまった、とのことで 本当にあったのかどうかも疑問です。 その辺りの情報収集も帰雲城調査会が昔から 行っておりますが芳しい、結果は得られておりません。 一方で金森氏のご子孫は確実に何代目ご当主として いらっしゃるんですけどね。
Tsukumonasu (木曜日, 08 1月 2015 19:05)
Tsukumonasuと申します。最近内ヶ島氏に興味が出てきたので質問させていただきます。 内ヶ島氏の子孫はいるのでしょうか? 噂で聞いた話では、氏理の弟で僧になっていた経聞坊なる人物がおり、その人の系統は現在も続いていると聞きました。ほかにそういったお話などはありませんでしょうか?
kaerigumo (日曜日, 04 11月 2012 22:51)
金森軍の飛騨侵攻における「岩瀬橋の戦い」が現在の岩瀬橋から北東に約800m・・・ 確かに「岐阜県の地名」に書かれているものです。 「北東に約800m」と若干、アバウトな表現なので確実な場所には ならないかもしれませんが、それでも当時の岩瀬橋の場所がおおよそ 見当がつくのではないかと思われます。 とりあえず、現在の地図に当てはめておおよその位置を特定してみましょう。 現在の地図で特定できたら次は御母衣ダム着工以前の地図に当てはめれば 「岩瀬橋の戦い」がどこで行われたかがハッキリしてきそうです。
ひで (日曜日, 04 11月 2012 06:20)
資料を見直していたら、『岐阜県の地名』930頁岩瀬村の項に、 「現関市光輪寺の延徳元年(1489)蓮如下付の方便法身尊像裏書に 「飛騨国白川善俊門徒同在所岩瀬」とみえる。庄川の岩瀬橋は古くは現在 地の北東約800mにあり、天正13年(1585)8月金森長近の飛騨 侵攻の際、帰雲城内ヶ島為氏の重臣尾神備前守氏綱の抵抗にあい、激戦の末 金森軍は敗退したという」とありました。 天正13(1585)年、金森軍の飛騨侵攻の「岩瀬橋の戦い」の 岩瀬橋の位置のヒントになると思います。 現在調査中のプロジェクトで「通称たいこ橋」とその北の「旧岩瀬橋」 (下滝橋)の「旧岩瀬橋」に当るのではないかと考えています。 もし400年以上前の「岩瀬橋」の位置を推定できると、「あがりたて」と その南の「八人塚・千人塚」の位置とが繋がることになります。 1つの史実が浮き上がると、関連した歴史をひも解けるのが面白く わくわくします。
kaerigumo (木曜日, 01 11月 2012 22:53)
斐太後風土記の牧戸村〜保木脇村の記述、、、奥が深そうですね。 非常に興味深いです。 この場合、歸雲山に城を築きて・・・ ということなので、絵図に時々書かれている旧皈雲山になりますが この山は少なくとも弓が洞谷に隣接していたであろう山ですから 今は跡形もありませんが、この斐太後風土記を執筆した時にはまだ 皈雲山の跡がひょっとしたら微かに残っていたのかも?(城址ではない) 今の状態では送電線の上辺り、松の木の生えているところ、が旧皈雲山 ではないか? と思われますが、ここは調査会がいやというほど攻めてますし・・・。^^; ただ、弓が洞一帯は調査して見る価値あり! と私は思います。 あとは、現白山神社周辺、でここは屋形の候補地として考えています。
ひで (水曜日, 31 10月 2012 18:36)
雲城跡と記してある古地図が2枚ありますが、2枚とも保木脇の 弓ケ洞谷下流域の北を記しています。この辺りを徹底的に探索 したいのですが、調査するたび簡単な目視のみで終了していた ので、次回はじっくり徹底的に走破しようと思います。その時は 管理人さん付き合って下さいませ。 文献を読み込んでいて不思議に思った記述があったので紹介します。 『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷 牧戸村』265頁に 「牧戸村 其の最寄にて要害を撰び、保木脇村の(彼三村より、 奥を見立てしは、ふかき心ありてなるべし)歸雲山に、新たに 城壘を築きて移住、」とありました。 これは、牧戸村の紹介の項のなかで、保木脇村に触れてわざわざ カッコ( )を付けて記しているのは、編纂者が何かを言い表し たい意図があると感じましたが、どうでしょうか? そういえば、向牧戸城の対岸に見つかった「仮称牧戸砦」も文献に 一切の記述がありませんし、荘川桜対岸の「赤谷城」に至っても 記述にない山城で、白川郷にはまだ未発見の山城が眠っていて 今後の調査で発見される可能性があるかもしれませんね。 皆さんと白川郷で逢えるのを楽しみにしまーす^^
kaerigumo (月曜日, 29 10月 2012)
丹羽さん、こんにちは。 コメントをありがとうございます。 「内?城址」については正直はっきりしていないのですが 関連性を考えているのか、私の周りの研究者はほとんどが 「内(島)城」だろうという判断です。(私はこの見方には否定的です) 丹羽さんの言われる「辰」(龍)ですが今のところ、内ヶ島氏に関して 辰や龍に関係するような物的証拠は見つかっていないと思います。 最初の文字が「内」であるのは間違い無いと思われるので常識的に 考えれば二番目は「島」あるいは「嶋」あたりが有望なんですが あの文字を見る限り、違うようにも感じます。 だとすれば、二番目のあの文字は何なのか? 「辰」であるとするなら「内辰城址」ということになりますが 「内辰」、から内ヶ嶋や家臣、地名に至るまで関連しそうな名前や地名は 見当たらないのが現状です。 ただ、あの絵図は江戸末期あたりに描かれた絵図なので、更に研究すれば 判明するかもしれないですね。
丹羽 (月曜日, 29 10月 2012 13:05)
帰雲城はどこに?のホームページ中の「内?城跡」の?は、「辰」ではありませんか?辰は龍のことです。内ヶ嶋氏の関係で辰または龍のつく名前、地名はありませんか?行書では最初の横棒を点で書くこともあります。画数と字形が辰に似ていると思います。老婆心まで。 富山からの帰り、五箇山によって白川郷、荘川icと移動途中にこの地の観音様を拝みました。此処へは、数回来ています。以前は隣の川砂利採集場があったようなと思いますが?156号を通るのは、飛騨トンネルを通りたくなかったからです。トンネルは長く、眠気を催しますし、せっかくの川と山の景色が見えないからです。
枯野 (日曜日, 02 9月 2012 09:33)
kaerigumo様 当方ブログにコメントご意見ありがとうございました。当方ブログは素人のひやかし紹介のようで、逆に恥じ入るばかりです。 当方が始めて当地を訪れたのは20年ほど前です。地形に興味があるので、富山から庄川と長良川を分ける分水嶺を見に行くのが目的でした。やはり地形に興味があったため、車窓から見えた帰雲山の崩壊斜面をまのあたりにして、観察ポイントを探しているとき、偶然帰雲城址の立て札を発見したことが、帰雲城と一連のなぞとの出会いでした。 当時の自身の推測では、当然城は庄川右岸にあったものと思っておりました。(というより河川自体が現在よりもっと西よりだったと推測)ご紹介されているなぞの地図(城マークはちょっと北寄り過ぎるようですが)のイメージです。想定される地形は、河川はもっ深い渓谷をなしており、防衛上の城は右岸段丘上に展開し、民家などは橋を介して左側段丘上に展開するイメージでした。現帰雲山の大規模地すべりにより数十mの土砂に埋め尽くされたうえに、二次災害というべき三宝崩山の崩壊による土石流が多量に堆積し、川筋を大きく谷の東に寄せてしまったのが今の地形ではないかと推測(勿論科学的実証に基づいたものではなく、現地と現地図を眺めている素人の推測ですが)しておりました。 kaerigumo様はじめ各方面の方々の調査資料をWeb等で拝見させていただき、帰雲なる頂が別にあることや、当時の地図等が紹介されていたりすると、現地一見だけの素人自説の根拠のなさを恥じたりもします。 Kaerigumo様の研究調査のご成果を心よりお祈り申し上げます。自分もこの謎を是非知りたいと思いますが、反面、「謎は謎のままで残っていてもいいのかなぁ」という気持ちも片隅にはあったりします。今回は本当にとんぼ返りでしたが、一度ゆっくりと訪れて、いくつか挙げられた候補地にじかに足を踏み入れてみたいと思っております。
kaerigumo (木曜日, 23 8月 2012 08:06)
枯野さん、はじめまして。 新・帰雲城と内ヶ嶋氏の謎をご覧頂きましてありがとうございます。 弓が洞谷に行かれましたか。。。 確かに谷らしくない谷?という感想を私も持っています。 2Kmほど北に「シッタカ谷」という谷がありますが、こちらは 山崩れの影響が無かったのか、谷らしい谷になっています。 サイト内の史料を見ていただくと分かりますように江戸期の 絵地図には弓が洞谷のすぐ北側に「帰雲城跡」と書かれたものもあって 有望な帰雲城候補地の一つでもあります。 また、現在の弓が洞谷は地震前と比べて谷筋が変わったと言われています。 通行できない吊り橋とは、小坂建設さんの吊り橋ですかね? 右岸に渡る・・・。 我々も近いうちに弓が洞の上に登って地形、その他を確認する作業を 進める計画を立てています。 右岸の木谷地区から弓が洞周辺を見ると興味ある地形が確認できるので 是非、調査してみたいと思っています。 調査会がなかなか動かないので、現在は有志4名で別グループを作って 行動していますが、期待に応えられるよう頑張ります。 ありがとうございました。
枯野 (水曜日, 22 8月 2012 23:58)
昨日、20年ぶりに帰雲城埋没地点に赴きました。帰省中のタイトスケジュールでした。今回は観音像のある場所だけではなく、弓が洞谷の入口も行ってきました。ド素人ですが、やはりこの辺の川筋の地形は違和感があります。この手の谷では川は周囲の段丘より、もっと深い渓谷状に削られているのが普通だと思います。広い川筋なのは山体崩壊によるものか、ダム等の人工的地形形成なのかはわかりませんが、帰雲城もさることながら、自身前のこの辺の地形がどうなっていたかは興味がありますです。 昭和の地図も拝見しました。保木脇の位置もずれているようですね。 ダムサイドの帰雲城付近には現在も一般人の通行ができない釣り橋がかかっています。あの吊橋の向こうに城があったら、さぞ天然の要害だったでしょう。 内容とても興味津々で読ませていただきました。今後のご活動に期待申し上げます。
餅好胡桃 (火曜日, 12 6月 2012 05:49)
おはようございます! お元気ですか!
赤影 (土曜日, 28 12月 2024 06:40)
ゆうやさん、コメントありがとうございます。
帰雲城に興味を持たれる方が増えてうれしい限りです。
発掘調査に関して私はコアな情報を持っているわけではありませんが
例のTV愛知の番組、、、掘削に協力した人物は私のかつての仲間です。
2027年に再度、掘削するとすればおそらくまた彼らとTV愛知になるでしょうが
3年後のことなので行われるかもしれないし、行われないかもしれない、
としか現時点では言えません。
彼は気合い十分だと思いますが何しろこの期時世、穴を掘るにも以前とは
比較にならないほど予算が必要ですし、行われればラッキーくらいに
考えておいたほうが良いかもしれません。
私自身は遺構が見つかるとか金塊を探すとかには興味がなく
普通に歴史に特に戦国史やお城が好きで研究をしています。
一方で彼ら(調査会)は城の遺構や金塊が本命ですのでそれが決定打になって
袂を別れることになりました。
仮に見つかってしまうとこれまでの謎やミステリーが消えてしまうので
このままの方が良いと考えています。
もし、遺構探しに興味がおありでしたら調査会に入会されてみては
いかがでしょうか。(現在はホンの数名での活動ですが・・・)
ゆうや (水曜日, 25 12月 2024 14:55)
初めまして。
最近になり帰雲城について興味を持ち過去に行われたテレビ愛知主導の発掘調査の動画等を見返しているのですが、これとは別に2027年に試験的な発掘調査を予定しているという情報を他サイトで見かけたのですが、これは実際に予定されていることなのでしょうか?
赤影 (金曜日, 18 10月 2024 08:17)
山田さんへ
地震直後、実際には両岸の山が崩れ両方の土砂が庄川に達して土砂ダムができたのは事実です。
この土砂ダムは約二十日間で決壊したようです。その間、水流が断たれた富山側ではたくさんの魚が獲れたという話も残っています。
赤色立体図で崩れた周辺を何度か見てみましたが、やはり地震前の地形とは随分変わってしまっているんだなと思った次第です。
ただこの赤色立体図、関ヶ原の合戦時、今まで存在すら言われてこなかった玉城なる城を炙り出したと聞いています。
妄想したり、当時の状況を想像したりすることは楽しいです。
似たような時代の城にも行きましたし図書館通いもしましたし正直、あの頃が一番面白かったと思っています。
まだまだ謎は多いですよ、帰雲城。。。
山田 (木曜日, 17 10月 2024 19:33)
ご返答ありがとうございます。
もうお調べになっていたとは。やはりあの地形は自然地形ということなのでしょうね。
陰影起伏図のツールで調べて周りより3~4M高く台地状なっていて、1辺が100m近い直線基調の四角形でこれはまさしく!と思ったのですが、やはり素人考えでした。
更に丁度あの地形横の山に崩れた後があったので、帰雲城を飲み込んだ土砂崩れはその山のもので、帰雲山の大崩れが別に自然ダムを作り出し、水の中に没した、みたいな妄想をしてしまいました。
ただ色々と想像を重ねることがとても楽しく思えるので、資料などぜひ活用させていただきたいと思います。ありがとうございました。
赤影 (火曜日, 15 10月 2024 23:40)
山田さんはじめまして。
コメントをくださりありがとうございます。
結論から申し上げるとその辺りには昭和の炭焼き小屋がいくつか残っております。
我々も数回調査に入りました時同じことを想像したりもしましたが根本的に帰雲山は天正大地震以降も数回崩れた記録があってやはりその直下はもはや当時の地形が残っていないと言うのが我々の見解です。
ただし、あくまでも我々の見解で絶対ではありませんので山田さんが想像を膨らませ意外な展開を推理するのもありだと思います。
一応、史料の部屋というコーナーにダウンロード可能なものもあるので使えそうだと思えば自由にお使いください。
ここだけの話ですが埋没帰雲城調査会なる団体があって(今はもう活動していません)この団体は帰雲城山のある庄川右岸ではなく左岸ばかりを調査し掘削調査も過去には試みておりますがめぼしい結果は何も出ていません。したがって右岸(木谷地区)はあまり調査してこなかったのです。
確かに状況証拠でいけば保木脇が有力で過去の天正地震時の公家の日記などをみても保木脇の、、、が多いです。ですが可能性がゼロではないので頑張って調べてみて下さい。お役に立てることがあればまたお声掛けください。
山田 (火曜日, 15 10月 2024 19:16)
初めまして。
つい最近、帰雲城の話を知り、このホームページの研究レポートや興味本位で現地に見に行ったり地図を開いたりして楽しんでおりました。
国土地理院の陰影起伏図を見ていたところ、保木脇の庄川をはさんで東岸に、奇妙な起伏がありました。現在は森の中のようで現地に行ったときはどういったものなのか観ることはできなかったのですが、直線基調で四角に区切られていて、まるで城跡のようでした。これはなんであるのか?自然にできた地形なのか?ぜひご意見をお聞きしたいと思い、ご質問させていただきました。
https://maps.gsi.go.jp/#17/36.206767/136.897164/&base=std&ls=std%7Chillshademap&blend=0&disp=11&lcd=hillshademap&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s1m0f2&vs2=f2&sync=1&base2=std&ls2=std%7Cd1-no461&blend2=0&disp2=11&lcd2=d1-no461
管理人 (月曜日, 07 12月 2015 14:11)
ソレックスさん、
コメントをありがとうございます。
城址なんですけどね、
やはり、いろんな説があり色んな意見もあり
どうしても一箇所、ここ!
と言えるだけの説得力のある説がないのが現状です。
どの説にも一長一短があり、文献の解釈によっても
変わってしまうような状況です。
おっしゃるように現在の帰雲城の碑の立っている場所も
有力な候補には間違いありませんし
そこよりもやや上にある送電線の鉄塔付近もかなり
有力な候補ではあります。
かといって崩落後の残る帰雲山の麓はないか?
といえば、そうとも言い切れず、未だに右岸説も
頑張っています。
それはさておき、、
教育委員会ですよね。
動こうにも村の予算を使って、出るかどうかわからない
城の遺構を探すにも村民の理解を得られる可能性が
少ないことや、仮に見つかってもどう保存するのか?
どんな城なのかもわからないのに復元ができるのか?
様々な理由が考えられるのと、現在白川村は荻町の合掌集落で
手一杯な状況ですので、まず近未来に帰雲城発掘に向かう
ことはないと思っています。
とりあえず、好きな人に調査させておいて何かが出たら
後を引き継ぐ形がベターなんじゃないかと思いますけどね。
ソレックス (日曜日, 06 12月 2015 21:00)
初めまして、ソレックスと言います。そこそこ歴史は好きで、一夜にして消えた帰雲城も有名な話で、たまたまココにお邪魔しました。前のHPも伺ってます。
色々説も拝見して頭がゴチャゴチャしてますw
で、単純にグーグルマップの空中写真を見ると、帰雲山の崩壊は目立ちますよね。
で、元々地形的に沢に成ってる様で、地震崩壊前も扇状地だったと思います。山の崩壊で、酷く盛り上がっている所がまあ不自然で、この下に埋まってるのでは?と、単純に考えてしまいますよね。
あと、対岸にもあったかも?と言う事ですが、弓ヶ洞谷も随分長い沢で、やはり川岸は扇状地だったでしょう。ただ、ココも不自然に盛り上がっていて、地震の影響で崩落したんでしょうね。川から500mほど、山が丸く崩落した跡があります。
その山の南側、帰雲商事の裏も細かい沢が見えますが、崩落したんでしょうね。
帰雲商事から北、ぐるりと川が丸く蛇行したのは崩落した土のせいに思えます。
こうなると、石碑がある所が、やはり城跡なのか?と思えてきますね。
しかし、大々的に教育委員会が動かないのは、これという資料が、確証が得られないからですかね?
埋蔵金の話で有名になった所ですが、マスコミもあまり話題にしないし。
ロマンで片付けるのもモヤモヤしますし。
また、色々話が進むのを楽しみにしています!
管理人 (木曜日, 23 7月 2015 08:49)
つくもなすさん、
山下家が内ヶ島一族であるかも?
ということは、重臣ですし長い付き合いの中、婚姻関係があったであろう
ことは容易に想像できますし、一族の結束を高めるにはやはり婚姻が
重要であったのではないかと思います。
その証拠がどこにあるのか?
系図を辿って探すしかないのかなぁ、とは私も考えています。
ただ、現時点ではその証拠は私にはありません。
木を切り倒した、
との逸話ですが、ここに書かれています。
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e409549.html
どちらかというと悪い噂の多い、氏理なので行ってきたことで
厳しいことが全て地震の祟りみたいに言われてるのかな?
とも思います。
白川、荘川の両村史を見ましても荘川村史の方でよりきつい
描かれ方をされているのではないかと。
私も一見、関係のなさそうな広瀬氏との関わりが出てきたので
なりほどなぁ、と思っています。
つくもなす (木曜日, 23 7月 2015 00:11)
速やかな返信並びにアドバイス有り難う御座います。ひでさんの研究結果は以前興味深く読ませて頂きました。系図の画像は見たことがなかったので驚きです。「飛騨人物辞典」の237ページに「山下時慶(氏勝の父)は内島一族の数少ない生き残り」との記述があり、これは本当か?と疑問に思ったので質問させて頂いた次第です。
とりあえず判明したことはWikipediaの内ヶ島氏の家臣の項目に書いておきました。
それと、内ヶ島氏理の逸話で、「氏理が神聖な大木を切り倒したが故に神罰により滅亡した」みたいな逸話を以前見かけたのですが、ご存知ないでしょうか?
管理人 (水曜日, 22 7月 2015 17:06)
Tsukumonasuさん、、
質問をお寄せ下さりありがとうございます。
山下家が内ヶ島の血を引いているのか?
というご質問ですが、系図を調べられた方がいます。
私の方にはその史料がありませんので系図から血縁関係があるのか
どうか?は分かりかねますが、それに近い史料といては、
当研究会の会員である、ひでさんの調べた内ヶ島氏の三家臣について
がありますので、まずはそれを読んでいただき、、、
「帰雲城内嶋三家臣の活躍時期について」です。
http://kaerigumo.jimdo.com/%E5%B8%B0%E9%9B%B2-%E5%86%85%E3%83%B6%E5%B6%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/%E4%BC%9A%E5%93%A1%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%81%B2%E3%81%A7/
系図に関しましては、こちらのサイトを見ていただけたらと思います。
「飛騨の歴史再発見」の中の
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e409549.html
と
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e406856.html
になります。
Tsukumonasu (水曜日, 22 7月 2015 16:23)
家臣の山下氏勝は生き残りましたよね。山下氏は為氏の代からの譜代ですが内ヶ島の血は引いているのでしょうか?山下氏勝の末裔は現在2系統あるそうです。
kaerigumo (水曜日, 13 5月 2015 21:18)
天さん、こんばんは。
浄念寺さんですよね。
実はまだ、お訪ねしておりません。
HP上にはまだ載せておりませんが、いつぞや新聞紙上にて
天正地震における寺宝を含めた伝説やその経緯について
ページが割かれていたのを拝見しました。
そんなこともあって、現在まで足が向いてはいませんが
本来の目的は当時、金森軍が飛騨攻めのおり、どういう進路で
白川郷まで向かって行ったのか?
その事実を解明したいと考えています。
しかしながら現在は旧荘川村、御母衣ダム建設によって
水没した地域においても同様の疑問があり、そちらを今は
重点を置いて調査中です。
もし、いい情報がありましたら教えてくださるとありがたいです。
天 (水曜日, 13 5月 2015 19:04)
浄念寺は調べましたか?
kaerigumo (火曜日, 07 4月 2015 23:00)
とまとaMBkさん、こんばんは。
コメントをありがとうございました。
福島步危、平瀬步危について調べたのですか?
それはすごいですね。
実は步危を実際に歩く、トラックが通る、、、」
そんな写真も見せていただいたことがありますが
崖の上からワイヤーなのかロープなのかは
わかりませんが、吊橋のような感じで橋が崖に
張り付いている感じでした。
これが当時の道路として機能していたわけですから
正直、恐ろしい気がしました。
当時は子供の通学にも事故が多かった、、、
との話も聞かせていただきました。
御母衣ダムの湖底、、、
水没前の当時の写真、ですがHPにはいくつかは載せていますが
全てではないんです。
まだまだいっぱいあります。
運良く、この地域に住んでいて教員をされていた方が
私の実家の町内に越してこられ、子供も私と同級生だった
という縁で当時の貴重な資料を拝見できる機会がありました。
写真類は全てを借り受けて写真に撮り直したり
フィルムスキャナで取り込んだりしてかなりの
写真はデータ化することができました。
今後も少しずつ文章と一緒に写真もアップして
いきますので、よろしければ気長に見てやって
いただけたらな、と思います。
よろしければ、写真や絵図等、ダウンロードして
いただいても結構ですので、使ってやってください。
帰雲城はですね、、、
おっしゃる通りの状況でして。。。
しかし、そのおかげかどうかわかりませんが
御母衣ダムにも興味が湧いたという怪我の功名とでも
言いましょうか、元はと言えば照蓮寺というお寺が
あり、そこにあった桜の木が現在の荘川桜だったことも
大きな理由ですね。
とまとaMBk (火曜日, 07 4月 2015 17:16)
富山県在住で、庄川は故郷の川でした。小学校の遠足は小牧ダムでした。1972年(昭和47年)、国道156号(旧道)を車で南下したときに、初めて庄川の上流の姿を見ました。
福島歩危や平瀬歩危を調べているうちに、御母衣湖の湖底に沈む前の地形を見たい、村を見たいと思うようになり、こちらのサイトにたどり着きました。貴重な写真や、古い絵図など、見飽きることがありません。
水没した村を地図や絵図で再現なさるご予定とか。聞き取り調査をなさっている由、大変でしょうが、楽しみにしています。
帰雲城の方は、文字通り、雲をつかむようですが・・・
kaerigumo (土曜日, 10 1月 2015 21:10)
Tsukumonasuさん、こんばんは。
伊賀のご出身ですか?
私はJRを岐阜から乗り継いて伊賀まで行ったことがあるんですが
加太、あたりから見える景色はなんというか、、、
秘密の隠れ里のような何か違う空気を感じた記憶があります。
表現がしにくいのですが、違う空間に来たみたいな雰囲気を
感じたことを覚えています。
おそらく伊賀も小さな豪族の集合体が一つの勢力に
なっていたでしょうから分散すれば、現在もその子孫の方々は
間違いなくご健在でしょうね。
しかし内ヶ島氏の場合は、ほぼ天正大地震で全滅、
してしまったので、子孫といってもどこまでが本当の子孫、
と言えるのかどうか?
そもそも出自ですら最低でも三つのご先祖様に
ぶつかってしまいます。
これらの最初が違うと後の子孫も全てが変わってしまう
という状況でして。。。
これがわかれば、研究もぐっと進展するのですが。
Tsukumonasu (土曜日, 10 1月 2015 11:52)
返信有難うございます。!
ん~。やはり確実な子孫は確認できないのですね。。。
私は伊賀の出身なのですが、各集落に一軒は必ず豪族の子孫が居ます。文献上には信長に滅ぼされたとなっていても、城館に今なお住んでいたりするので、内ヶ島氏も傍系の子孫が居たとしてもおかしくないかもですね。
kaerigumo (金曜日, 09 1月 2015 08:14)
Tsukumonasu さん、おはようございます。
内ヶ島氏の子孫の方々、、、
経聞坊も含めて弟二人がかろうじて
生き残ったというのが歴史では伝わっていますが
何しろ、家系図らしきものが残っていない
というのが実情です。
郡上八幡から砺波、高岡にかけての地域に
内ヶ島姓の方が結構いらっしゃるのも事実
ですが、共通するのは昔からの伝聞はあっても
詳しいことは何もわからない、というのが
現実のようです。
高山市に子孫の開基したといわれるお寺も
あるのですが、住職に言わせると宝物があったものの
ある時、無くなってしまった、とのことで
本当にあったのかどうかも疑問です。
その辺りの情報収集も帰雲城調査会が昔から
行っておりますが芳しい、結果は得られておりません。
一方で金森氏のご子孫は確実に何代目ご当主として
いらっしゃるんですけどね。
Tsukumonasu (木曜日, 08 1月 2015 19:05)
Tsukumonasuと申します。最近内ヶ島氏に興味が出てきたので質問させていただきます。 内ヶ島氏の子孫はいるのでしょうか? 噂で聞いた話では、氏理の弟で僧になっていた経聞坊なる人物がおり、その人の系統は現在も続いていると聞きました。ほかにそういったお話などはありませんでしょうか?
kaerigumo (日曜日, 04 11月 2012 22:51)
金森軍の飛騨侵攻における「岩瀬橋の戦い」が現在の岩瀬橋から北東に約800m・・・
確かに「岐阜県の地名」に書かれているものです。
「北東に約800m」と若干、アバウトな表現なので確実な場所には
ならないかもしれませんが、それでも当時の岩瀬橋の場所がおおよそ
見当がつくのではないかと思われます。
とりあえず、現在の地図に当てはめておおよその位置を特定してみましょう。
現在の地図で特定できたら次は御母衣ダム着工以前の地図に当てはめれば
「岩瀬橋の戦い」がどこで行われたかがハッキリしてきそうです。
ひで (日曜日, 04 11月 2012 06:20)
資料を見直していたら、『岐阜県の地名』930頁岩瀬村の項に、
「現関市光輪寺の延徳元年(1489)蓮如下付の方便法身尊像裏書に
「飛騨国白川善俊門徒同在所岩瀬」とみえる。庄川の岩瀬橋は古くは現在
地の北東約800mにあり、天正13年(1585)8月金森長近の飛騨
侵攻の際、帰雲城内ヶ島為氏の重臣尾神備前守氏綱の抵抗にあい、激戦の末
金森軍は敗退したという」とありました。
天正13(1585)年、金森軍の飛騨侵攻の「岩瀬橋の戦い」の
岩瀬橋の位置のヒントになると思います。
現在調査中のプロジェクトで「通称たいこ橋」とその北の「旧岩瀬橋」
(下滝橋)の「旧岩瀬橋」に当るのではないかと考えています。
もし400年以上前の「岩瀬橋」の位置を推定できると、「あがりたて」と
その南の「八人塚・千人塚」の位置とが繋がることになります。
1つの史実が浮き上がると、関連した歴史をひも解けるのが面白く
わくわくします。
kaerigumo (木曜日, 01 11月 2012 22:53)
斐太後風土記の牧戸村〜保木脇村の記述、、、奥が深そうですね。
非常に興味深いです。
この場合、歸雲山に城を築きて・・・
ということなので、絵図に時々書かれている旧皈雲山になりますが
この山は少なくとも弓が洞谷に隣接していたであろう山ですから
今は跡形もありませんが、この斐太後風土記を執筆した時にはまだ
皈雲山の跡がひょっとしたら微かに残っていたのかも?(城址ではない)
今の状態では送電線の上辺り、松の木の生えているところ、が旧皈雲山
ではないか?
と思われますが、ここは調査会がいやというほど攻めてますし・・・。^^;
ただ、弓が洞一帯は調査して見る価値あり!
と私は思います。
あとは、現白山神社周辺、でここは屋形の候補地として考えています。
ひで (水曜日, 31 10月 2012 18:36)
雲城跡と記してある古地図が2枚ありますが、2枚とも保木脇の
弓ケ洞谷下流域の北を記しています。この辺りを徹底的に探索
したいのですが、調査するたび簡単な目視のみで終了していた
ので、次回はじっくり徹底的に走破しようと思います。その時は
管理人さん付き合って下さいませ。
文献を読み込んでいて不思議に思った記述があったので紹介します。
『斐太後風土記卷之九 大野郡白川郷 牧戸村』265頁に
「牧戸村 其の最寄にて要害を撰び、保木脇村の(彼三村より、
奥を見立てしは、ふかき心ありてなるべし)歸雲山に、新たに
城壘を築きて移住、」とありました。
これは、牧戸村の紹介の項のなかで、保木脇村に触れてわざわざ
カッコ( )を付けて記しているのは、編纂者が何かを言い表し
たい意図があると感じましたが、どうでしょうか?
そういえば、向牧戸城の対岸に見つかった「仮称牧戸砦」も文献に
一切の記述がありませんし、荘川桜対岸の「赤谷城」に至っても
記述にない山城で、白川郷にはまだ未発見の山城が眠っていて
今後の調査で発見される可能性があるかもしれませんね。
皆さんと白川郷で逢えるのを楽しみにしまーす^^
kaerigumo (月曜日, 29 10月 2012)
丹羽さん、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
「内?城址」については正直はっきりしていないのですが
関連性を考えているのか、私の周りの研究者はほとんどが
「内(島)城」だろうという判断です。(私はこの見方には否定的です)
丹羽さんの言われる「辰」(龍)ですが今のところ、内ヶ島氏に関して
辰や龍に関係するような物的証拠は見つかっていないと思います。
最初の文字が「内」であるのは間違い無いと思われるので常識的に
考えれば二番目は「島」あるいは「嶋」あたりが有望なんですが
あの文字を見る限り、違うようにも感じます。
だとすれば、二番目のあの文字は何なのか?
「辰」であるとするなら「内辰城址」ということになりますが
「内辰」、から内ヶ嶋や家臣、地名に至るまで関連しそうな名前や地名は
見当たらないのが現状です。
ただ、あの絵図は江戸末期あたりに描かれた絵図なので、更に研究すれば
判明するかもしれないですね。
丹羽 (月曜日, 29 10月 2012 13:05)
帰雲城はどこに?のホームページ中の「内?城跡」の?は、「辰」ではありませんか?辰は龍のことです。内ヶ嶋氏の関係で辰または龍のつく名前、地名はありませんか?行書では最初の横棒を点で書くこともあります。画数と字形が辰に似ていると思います。老婆心まで。
富山からの帰り、五箇山によって白川郷、荘川icと移動途中にこの地の観音様を拝みました。此処へは、数回来ています。以前は隣の川砂利採集場があったようなと思いますが?156号を通るのは、飛騨トンネルを通りたくなかったからです。トンネルは長く、眠気を催しますし、せっかくの川と山の景色が見えないからです。
枯野 (日曜日, 02 9月 2012 09:33)
kaerigumo様
当方ブログにコメントご意見ありがとうございました。当方ブログは素人のひやかし紹介のようで、逆に恥じ入るばかりです。
当方が始めて当地を訪れたのは20年ほど前です。地形に興味があるので、富山から庄川と長良川を分ける分水嶺を見に行くのが目的でした。やはり地形に興味があったため、車窓から見えた帰雲山の崩壊斜面をまのあたりにして、観察ポイントを探しているとき、偶然帰雲城址の立て札を発見したことが、帰雲城と一連のなぞとの出会いでした。
当時の自身の推測では、当然城は庄川右岸にあったものと思っておりました。(というより河川自体が現在よりもっと西よりだったと推測)ご紹介されているなぞの地図(城マークはちょっと北寄り過ぎるようですが)のイメージです。想定される地形は、河川はもっ深い渓谷をなしており、防衛上の城は右岸段丘上に展開し、民家などは橋を介して左側段丘上に展開するイメージでした。現帰雲山の大規模地すべりにより数十mの土砂に埋め尽くされたうえに、二次災害というべき三宝崩山の崩壊による土石流が多量に堆積し、川筋を大きく谷の東に寄せてしまったのが今の地形ではないかと推測(勿論科学的実証に基づいたものではなく、現地と現地図を眺めている素人の推測ですが)しておりました。
kaerigumo様はじめ各方面の方々の調査資料をWeb等で拝見させていただき、帰雲なる頂が別にあることや、当時の地図等が紹介されていたりすると、現地一見だけの素人自説の根拠のなさを恥じたりもします。
Kaerigumo様の研究調査のご成果を心よりお祈り申し上げます。自分もこの謎を是非知りたいと思いますが、反面、「謎は謎のままで残っていてもいいのかなぁ」という気持ちも片隅にはあったりします。今回は本当にとんぼ返りでしたが、一度ゆっくりと訪れて、いくつか挙げられた候補地にじかに足を踏み入れてみたいと思っております。
kaerigumo (木曜日, 23 8月 2012 08:06)
枯野さん、はじめまして。
新・帰雲城と内ヶ嶋氏の謎をご覧頂きましてありがとうございます。
弓が洞谷に行かれましたか。。。
確かに谷らしくない谷?という感想を私も持っています。
2Kmほど北に「シッタカ谷」という谷がありますが、こちらは
山崩れの影響が無かったのか、谷らしい谷になっています。
サイト内の史料を見ていただくと分かりますように江戸期の
絵地図には弓が洞谷のすぐ北側に「帰雲城跡」と書かれたものもあって
有望な帰雲城候補地の一つでもあります。
また、現在の弓が洞谷は地震前と比べて谷筋が変わったと言われています。
通行できない吊り橋とは、小坂建設さんの吊り橋ですかね?
右岸に渡る・・・。
我々も近いうちに弓が洞の上に登って地形、その他を確認する作業を
進める計画を立てています。
右岸の木谷地区から弓が洞周辺を見ると興味ある地形が確認できるので
是非、調査してみたいと思っています。
調査会がなかなか動かないので、現在は有志4名で別グループを作って
行動していますが、期待に応えられるよう頑張ります。
ありがとうございました。
枯野 (水曜日, 22 8月 2012 23:58)
昨日、20年ぶりに帰雲城埋没地点に赴きました。帰省中のタイトスケジュールでした。今回は観音像のある場所だけではなく、弓が洞谷の入口も行ってきました。ド素人ですが、やはりこの辺の川筋の地形は違和感があります。この手の谷では川は周囲の段丘より、もっと深い渓谷状に削られているのが普通だと思います。広い川筋なのは山体崩壊によるものか、ダム等の人工的地形形成なのかはわかりませんが、帰雲城もさることながら、自身前のこの辺の地形がどうなっていたかは興味がありますです。
昭和の地図も拝見しました。保木脇の位置もずれているようですね。
ダムサイドの帰雲城付近には現在も一般人の通行ができない釣り橋がかかっています。あの吊橋の向こうに城があったら、さぞ天然の要害だったでしょう。
内容とても興味津々で読ませていただきました。今後のご活動に期待申し上げます。
餅好胡桃 (火曜日, 12 6月 2012 05:49)
おはようございます!
お元気ですか!